――第 016 幕 圏外の真空――
天井の蛍光灯が、一斉に死んだ。
破裂。
乾いた音と共に青白い光が消失し、代わりに天井の端に並ぶ非常灯が、ドス黒い赤色の光を吐き出し始める。 床下から響いていた重低音の走行音が、唐突に途絶えた。 レールを刻む摩擦音も、モーターの唸りも、換気扇の駆動音もない。
気圧が急激に低下し、鼓膜が内側から外に向かって力任せに引っ張られる。 耳の奥に細い針を突き立てられたような鋭利な痛みが走り、頭蓋骨の裏側で「キーン」という極めて高い周波数の耳鳴りが鳴り響く。
自分自身の浅い呼吸音すら、分厚い水槽のガラス越しに聞いているように遠く、くぐもって聞こえる。 左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。 暗闇の中で、三つの青白い長方形の光が灯った。 紺色のスーツの女、ヨレたカーディガンの男、スカジャンの男。
三つの光の板が、それぞれの顔を青白く照らし出す。 ヨレたカーディガンを着た助手が、端末の画面を震える指で叩く。 コツ、コツという硬質なガラスの音は鳴らない。
陥没。
指先が、明るい画面に数ミリ沈み込む。 三十七度前後の生温かい弾力が、彼の指の腹に直接吸い付く。 画面に表示された青い光点が、デタラメな軌道を描いて高速回転を始めている。
助手の上下の歯が不規則なリズムでぶつかり合う。 カチ、カチ、カチ。 その硬質な摩擦音が、耳鳴りのノイズに混ざる。
彼は左手でカーディガンのほつれた糸を掴み、プチッ、プチッと引きちぎり続ける。 細かい糸くずが指に絡みつく。
少し離れた席で、警官は両手でスマートフォンを握りしめていた。 画面の隅に並ぶ四本の白い線が、一本、また一本と、「ポキッ」という乾燥した骨が砕けるような音を立てて折れていく。
画面の端の数字がドロドロの液状に崩れ、一つの黒い漢字へと形を変える。 『死』。 網膜の裏側でチカチカと明滅するその文字。
彼女は親指で画面の表面を強く擦った。
ズリッ。
親指が画面の奥へとめり込む。 引き剥がそうとすると、透明な粘液が、画面と指紋の間でネチャリと長く糸を引いた。 生温かい水分が指に絡みつく。
彼女は自身のズボンの生地で何度もその指を擦り付ける。
ズリッ、ズリッ。
布が皮膚を擦る鈍い摩擦音。 ボタンを弾く。
カチッ。
「う、わああっ!」
通路を挟んだ向こう側。金髪の男の喉の奥から、空気が引き裂かれたような排気音が漏れた。 彼の視線は手の中の画面に縫い付けられている。 待ち受けに表示されていた女の顔の皮膚が、赤い非常灯の光を浴びてドロドロに溶け落ち、眼窩から白濁した眼球が零れ落ちる肉塊へと変貌している。
男はスマートフォンを放り投げた。 銀色の筐体が、床のカーペットに落ちる。
咀嚼。
硬い金属が床にぶつかる音ではない。 水分を過剰に含んだ泥沼に、重い生肉を落としたような、極めて粘度の高い水音。 落ちたスマートフォンが床で跳ねることはない。
カーペットの繊維が蠢き、機械の半分を飲み込んでいる。 プク、プクと黄色い泡が弾け、端末は数秒で完全に床下へと沈み込む。 微かに酸っぱい臭いが立ち上り、気管支がヒクッと痙攣する。
なぜ、通信機器が有機的な肉として振る舞うのか。 空間の磁場が分子構造を書き換えているのか、それとも集団的な幻覚か。 論理的な仮説を立てるべきなのだろう。
だが、鼻腔の奥にへばりつく端末が溶ける酸っぱい臭いと、耳鳴りの高周波が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
臭気が邪魔だ。
まともな思考が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。
「私」は、右手のポケットの中で、チリチリと微弱な熱を放ち、掌の皮膚を焦がし続ける佐渡赤玉石を握りしめた。 タンパク質の焦げる微かな臭いが、空間の生温かい空気に混ざり合う。 その火傷の痛みに浅い呼吸を繰り返しながら、「私」は横を向き、真っ黒に塗りつぶされた窓ガラスに額を押し当てた。
体温。
ガラスに冷たさはない。三十七度前後の生温かい微熱。 窓の外。数センチの至近距離を、猛烈な速度で流れていくもの。 それは、無数の太い血管が網の目のように走り、時折大きく痙攣を繰り返す、ピンク色の巨大な肉壁だった。
それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ臓器の……いや、違う。 なんだろう。どうでもいい。 この不快な極彩色の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の奥で微小な火花が弾ける。 「私」の鼻腔に、窓のゴムパッキンから滲み出した、腐った獣脂の甘ったるい発酵臭が、べっとりと張り付く。
「私」は、窓の外の狂気を冷静に観察しているわけではない。 他人が端末の崩壊に怯え、空間が物理法則を無視すればするほど、都合が良かった。 彼らが狂い、世界が壊れていれば、あの病室で暴かれた自分自身の不潔な過去の輪郭が、有耶無耶に塗り潰されるからだ。
私はこの巨大な肉壁の脈動から目を背けないことで、自分の罪から目を背けているのだ。 自分は狂った世界の傍観者なのだという、極めて卑小で利己的な逃避本能。 左手でパジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
ただその反復音だけが、真空のように閉ざされた車内に反響し続けていた。




