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――第 017 幕 増殖する指――

 非常灯のドス黒い赤色が、一定の周期で車内をねっとりと舐め回す。 光が点灯するたび、空中に舞う微細な埃が、死んだ皮膚の粉のように白く浮かび上がり、再び闇へ沈む。

 空気の滞留。 エアコンの駆動音はない。

 他人の吐き出した古い呼気(こき)を、何度も自分の肺へ入れ直しているような、澱んだ重さが胸郭を物理的に圧迫し続けていた。 息を吸い込むたびに、カビの臭いと、放置された獣脂の腐敗臭(ふはいしゅう)気管支(きかんし)にべっとりと張り付き、肺の底に細かい砂利が蓄積していく。

「私」は、右手のポケットの底を探る。

 冷却(ゼロ)

 佐渡赤玉石(さどあかだまいし)の札が、先ほどの肉を焦がすほどの高熱から一転し、今は絶対零度の氷塊のように冷え切っていた。 その暴力的な冷気が、掌の血管から静脈(じょうみゃく)を逆流し、頭蓋骨の裏側を直接圧迫する。

 凍りつくような痛覚(ペイン)が、首筋をチリチリと撫で回す。

 左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。 通路を挟んだ斜め前の座席。 グレーのスーツを着た男が、うつむいたまま、手元のスマートフォンを操作していた。

 非常灯の赤い光と、液晶パネルが放つ青白いバックライトがドス黒く濁って混ざり合い、男の手元を死斑のような紫色に染め上げている。

 シュッ、シュッ。

 指先がガラス面を滑る、ひどく乾いた摩擦音。 早送り映像を見ているような、ブレを伴う激しい反復運動。

 眼球の筋肉が硬直(こうちょく)し、視界の端が白くチカチカと明滅する。 ボタンを弾く。カチッ。

 男の親指が動き、人差し指が添えられる。 その動きの裏側で、もう一本の「肉の突起」が蠢いていた。

 親指の付け根。 そこから、六本目の指が生えている。

 その指には、硬い爪が存在しなかった。 中に通っているはずの骨の硬さも、関節の節くれも感じられない。

 水分をたっぷり吸って膨張したナメクジのように、関節の硬さを一切持たない波打ち方で、液晶画面を叩き続けている。 他の五本の指とは逆の方向へグニャリと反り返り、画面に吸い付いては離れる。

 粘着ネチャリ……ペタッ……

 画面を叩くたびに、水分を含んだ吸盤をガラスから引き剥がすような、極めて粘度の高い水音が響く。 画面の奥から滲み出る透明な分泌液(ねんえき)を、その六本目の指全体が絡め取っていく。

 ズリ、ズリ。

 ボタンを弾く。カチッ。

 なぜ、あの男の指は増殖しているのか。 この空間の磁場が細胞分裂に干渉し、突然変異を強制しているのか。 論理的な仮説を立てるべきなのだろう。

 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥を刺す獣脂の腐敗臭(ふはいしゅう)が、脳細胞のシナプスの接続を細かく切断していく。

 臭気が邪魔だ。

 気管が細かく痙攣(けいれん)し、まともな思考の輪郭がドロドロに溶け落ちていく。

 破砕(パキッ)

 乾いた音が鳴った。 スマートフォンの液晶ガラスに蜘蛛の巣状のヒビが入る。 細かいガラス片が、肉に食い込む。

 それでも男の入力動作は止まらない。 ヒビ割れて微かに血と黄色い体液(リンパ)が滲んだ画面を、六本目の軟体性の指が、削れたガラスの破片ごと執拗に撫で回し続ける。

 気管支がヒクッと引き攣り、鉄錆の味を伴った酸っぱい液体が食道を逆流する。 「私」は大きく顎をずらし、強烈な鉄の味を無理やり嚥下(えんげ)した。

 喉の粘膜(ねんまく)がヒリヒリと焼ける。

 視線を、男の手元から上へと向ける。 ボタンを弾く。カチッ。

 うつむいた男の、ワイシャツの襟足。 そこから覗く青白い皮膚に、太く黒い「糸」が何重にも食い込んでいた。

 肉と肉を引き寄せて繋ぎ合わせたような、粗い縫合痕(フランケン)

 縫い目の隙間から、黄色い脂のような液体が微かに滲み、ワイシャツの白い襟をドス黒く汚している。 その縫い目の上には、後頭部の膨らみが存在しなかった。

 ただ滑らかな肉の袋が、のっぺりと続いているだけだった。 それはまるで、泥の底に沈んだ見知らぬ臓器の……いや、違う。

 なんだろう。どうでもいい。

 この極彩色の明滅の奥にある連想に、意味などないのだ。

 痙攣(ヒュッ)

 横で、微かな呼気の漏れる音がした。 ヨレたカーディガンを着た助手だ。

 皮脂と酸の飛沫で汚れた銀縁眼鏡の奥で、彼の瞳孔が限界まで開ききり、上下の瞼が不規則にぶつかり合っている。

 カチ、カチ。

 彼の歯が鳴る。 半開きになった口から、声帯が激しく引き攣り、空気が擦れる乾いた摩擦音しか出てこない。

 私は彼に声をかけ、正気を取り戻させるべきなのかもしれない。 だが、右手の親指の爪で人差し指の腹を強く引っ掻きながら、ただ彼の怯える姿を横目で見下ろしていた。

 私は、この異常な状況を冷静に分析できているわけではない。 ただ、隣で狂っていく他人の無様な姿を観察することで、自分だけはまだ「正常な側の人間」なのだという錯覚にすがりつきたいだけなのだ。

 彼が壊れれば壊れるほど、あの不潔な病室で暴かれた自分自身の罪悪感から目を背けることができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼に手を差し伸べるエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。

 赤い非常灯が瞬く。

 光が消える一瞬の暗闇の中で、男の六本目の指が限界を超えて長く伸び縮みしている光景が、網膜の裏側にこびりついて離れない。 車内の空気は、ゼリーのような粘度を増していく。

 息を吐き出すたびに、古い獣脂の腐敗臭(ふはいしゅう)と鉄錆の臭いが、肺の底にドロリと沈殿していく。 左手でパジャマのボタンを弾く。

 カチッ、カチッ。

 ただそのプラスチックの反復音だけが、澱んだ空気に反響し続けていた。


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