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――第 018 幕 水没するアナウンス――

 走行音が、明確な湿度を帯び始めた。 床下から響く規則的なモーター音が、「グチャ、グチャ」という粘り気のある摩擦音へと変わる。 巨大なスクリューが、重い泥沼の底を力任せに掻き回しているような重低音。 その振動が脛の骨を伝うたび、車内の気圧が微細に上下し、床のカーペットがジュワッと水気を滲ませる。

 水分を含んで膨張したアクリル繊維から、生乾きのカビの臭いと古い鉄錆の臭いが立ち上り、気管支の粘膜(ねんまく)にべっとりと張り付く。 「私」は大きく顎をずらし、何度も過剰な唾液(だえき)を飲み下した。

 ゴクリ、ゴクリ。

 左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。 右耳の奥深くにへばりついていた泥の感触が、突然生々しく蘇る。 鼓膜が内側から外へと強く引っ張られ、「キーン」という鋭利な高周波が頭蓋骨の裏側で反響し続けている。

 数メートル先。 非常灯の赤い光に照らされ、真っ黒に塗りつぶされた窓ガラスの外側を、雨粒ではない「黒い線」が真横に流れていく。 コールタールのように粘度が高く、ちぎれた海藻のようなドス黒い筋。 それが何本も、窓ガラスの表面にへばりついては猛烈な速度で後方へ流されていく。

 光源はない。 完全な漆黒の中で、それらは微かに波打っている。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の髪が……いや、違う。 なんだろう、あれは。

 どうでもいい。 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。 窓枠の黒いゴムパッキンからは、古い獣脂が発酵したような甘ったるい腐敗臭(ふはいしゅう)が絶え間なく立ち上り、鼻の奥の粘膜(ねんまく)にザラザラと張り付いていた。 息を吸い込むたび、気管支が細かく引き攣る。

 この臭気が邪魔だ。

 網膜に焼き付いた黒い線の速度を計算し、現在の走行速度を割り出そうとする論理的思考が、ドロドロに溶け落ちていく。 ボタンを弾く。

 カチッ。

「……なんか、息苦しくねえか」

 通路を挟んで座る金髪の男が、スカジャンの下に着たシャツの襟を乱暴に引っ張った。

 剥離(ベリッ)

 水分で肌に張り付いた化学繊維が剥がれる、ひどく鈍い音。 彼の首筋の毛穴が開閉し、透明な体液(リンパ)が幾筋も流れ落ちている。 彼は右手でバタフライナイフの柄を何度も開閉し続ける。

 パチン、パチン。

 鋼がぶつかる微小な振動が、生暖かい空気の層を揺らす。 空気が、重い。 大気の中に目に見えない微小なゼリー状の粒子が充満し、息を吸い込むたびに肺胞へねっとりとまとわりついてくる。

 息が詰まる。

「私」は彼の訴えに対して、共感も解決策の提示も行わない。 ただ、彼が息苦しさに悶え、無意味な反復動作を続ける姿を横目で観察することで、自分自身が抱える過去の汚れた記憶から目を背けたかったのだ。 他人が苦しんでいればいるほど、自分の罪の輪郭が曖昧に塗り潰される。 そんな極めて卑小で利己的な逃避本能が、彼に声をかけるエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。

 ボタンを弾く。

 カチッ。

 ジッ、ジジッ。

 天井に等間隔で設置された古びたスピーカーから、高周波の電気音が漏れた。 少し離れた座席で、紺色のパンツスーツを着た女が、自身の親指の爪で人差し指の腹を強く引っ掻く。

 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の臭いが獣脂の臭いに混ざる。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る振動が骨を伝う。

『――次は、△※〇×――』

 最初は、聞き慣れた車内アナウンスの波長だった。 しかし、その声帯の震えは、三文字目を発した瞬間に視界の端が白く明滅するようなノイズへと変質した。

『――次は、ヨモ、ゴボッ、ゴボボボボ……』

 スピーカーの奥から、深い水底から浮上した巨大な気泡が弾けるような、ひどく湿った破裂音が噴き出す。

『……火、口、ヒューッ……』

 気管に、大量の「液体」が流れ込んだ水音。 狭い気道を空気が無理やり通り抜けようとする、笛のような摩擦音。 そして、音素と音素の間に、粘度の高い唾液(だえき)と泥水を無理やり飲み下す「ゴクリ」という極めて肉感的な嚥下音(えんげおん)が挟まり、車内のゼリー状の空気を物理的に振動させる。

 冷たい液体の中で溺れながら、それでも単語の羅列を出力し続けている。 その呼吸音が、分厚い水槽のガラスを通り抜けたような振動となって、「私」の鼓膜を直接殴打する。

「私」の気管支がヒクッと痙攣(けいれん)し、肺の動きがピタリと停止した。

 スピーカーから流れる「溺れる音」の波長が、気管を塞ぐ。

 息ができない。

 パジャマのボタンを弾く。

 カチッ、カチッ。

 この溺れる声の主を特定し、状況を論理的に分析するべきなのだろう。 だが、鼻腔の奥にへばりつく古い獣脂の発酵臭とカビの臭いが、脳細胞のシナプスの接続を強制的に切断していく。

 臭気が邪魔だ。

 まともな思考が組み上がらない。 ただ、その「溺れる音」は、かつて泥の斜面で自分が吐き出した呼気(こき)の記憶と生々しく共鳴していた。 私は、その事実から目を背けるために、左手の指先でプラスチックのボタンを弾く作業に意識を没入させる。 過去の責任から逃れ、自分だけは乾いた安全な場所にいるのだという自己欺瞞の反復。

 眼球の裏側で微小な火花が弾け、視界全体にザラザラとした砂嵐が走る。 視界の彩度が急速に落ち、白茶けた濁りの中に空間が沈み込む。 古い獣脂の発酵臭とカビの臭い。

 胃の底に泥のような塊が落ちていく感覚。

 左手でボタンを弾く。

 カチッ。

 天井の非常灯の暗赤色の光の中で、ただスピーカーから漏れる湿った水音と、プラスチックの反復音だけが鳴り続けていた。


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