――第 019 幕 肉袋の晩餐――
天井の非常灯から放たれるドス黒い赤色が、一定の周期で車内をねっとりと舐め回す。
光の波が届くたび、空中に舞う微細な埃が白く浮かび上がり、再び濁った闇へと沈殿していく。 三十七度前後の生温かいゼリーのように澱んだ大気。
息を吸い込むたびに、気管支の壁にその重い湿気が張り付き、肺の奥底に生温かい泥の塊が蓄積していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
パキッ。
唐突に、薄いプラスチックの留め具が割れる乾いた音が響いた。 続いて、輪ゴムが弾ける鈍い振動。
薄い木を削いだような弁当箱の蓋が「ペリペリ」と剥がれる摩擦音。 一つではない。
車内のあちこちから、全く同じ作業音が空間へドロリと伝播していく。 ボタンを弾く。
カチッ。
周囲の座席に深く沈み込んでいた肉の塊たちが、一斉に動き始めていた。 彼らの関節のない腕が、不自然な角度で膝の上のプラスチック容器へと伸びる。
のっぺらぼうだったはずの彼らの顔面。 その頂点が、メリッと湿った音を立てて十字に裂けた。
中には歯も舌もない。 ただ、薄桃色の滑らかな粘膜で構成された、暗い空洞が広がっているだけだ。
彼らの指先が、弁当箱の中から何かを掴み出す。 それは白米やおかずではない。
どす黒く変色した泥のようなペーストと、黄色い粘液にまみれた、形のない有機物の塊。 それを、十字に裂けた頭部の空洞へと、次々に押し込んでいく。
ズズッ、ジュボッ。
分厚い粘膜が、水分を過剰に含んだ泥を吸い込み、強引に嚥下する極めて粘着質な水音。 車内のあちこちで、その咀嚼音でも嚥下音でもない、不気味な水鳴りが連鎖し始める。
彼らが食事を口に運ぶたび、弁当箱の中から強烈なアンモニア臭と、古い獣脂が発酵したような甘ったるい腐敗臭が立ち上り、ゼリー状の空気の中で分厚い層を作っていく。
息を吸い込むたび、その不潔な臭気が鼻腔の奥にべっとりと張り付き、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この悪臭が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線がドロドロに溶け落ちていく。 なぜ彼らは一斉に食事を始め、あの不潔な泥を体内に取り込んでいるのか。 その生態学的なメカニズムを論理的に分析すべきなのだろう。
だが、視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で微小な火花が弾ける。
オエッ……。
通路を挟んだ向こう側で、紺色のパンツスーツを着た警官が、床に這いつくばって乾いた嘔吐を繰り返している。 彼女の胃はすでに空っぽで、ただ黄色く濁った苦い胆汁だけが口の端から垂れ落ち、床のカーペットに酸っぱい染みを作っていた。
彼女の顔の筋肉は恐怖で限界まで引き攣り、毛細血管が破裂しそうな眼球がデタラメな方向へ揺れている。 彼女は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ、メキッ。
骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 その後方では、金髪の男が「ヒューッ、ヒューッ」と浅い排気音を漏らしながら、自身のスカジャンの襟を握りしめ、貧乏ゆすりをしている。
彼の足が動くたび、靴底とカーペットが擦れて鈍い音が鳴る。
ズリッ。
ヨレたカーディガンを着た助手は、ひび割れた眼鏡の奥で完全に焦点を失い、何もない虚空に向かって早口で数式を吐き出し続けている。
私は、彼らの狂乱を止め、この異様な晩餐から目を逸らさせるべきなのだろうか。 いや、本当は違う。
私はただ、彼らがこの不潔な食事の光景と悪臭に耐えきれず、無様に嘔吐し、震え上がる様を薄目で見下ろしていたかっただけだ。 他人が限界を迎えて惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪の輪郭が、相対的に曖昧に塗り潰されていく。
彼らが狂えば狂うほど、自分だけはまだ「正常で、冷静に観察している側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼らに声をかけようとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。
「私」は大きく顎の関節をずらし、過剰な唾液をゴクリと飲み下す。
右手のポケットの底。 佐渡赤玉石の札が、絶対零度の氷塊のように急激に冷え切っている。
冷却。
その暴力的な冷気が、掌の血管から神経を逆流し、頭蓋骨の裏側を直接圧迫する。 凍りつくような痛覚が、首筋をチリチリと撫でる。
この冷徹な物理的激痛に没頭していれば、自分が罪深い逃亡者ではなく、この不条理な環境に耐える無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
糸を引きちぎる。
プチッ。
食事の音(ズズッ、ジュボッ)と、乾いた嘔吐音、そして布とプラスチックが擦れる微小な摩擦音。 ただそれらの波長だけが、赤い非常灯の明滅の中で、澱んだ空気を震わせ続けていた。




