――第 020 幕 視線の包囲網――
嘔吐。
床のカーペットが、黄色い胃液を吸い込む微細な泡立ちの音が響く。 そのひどく湿った音が鳴り終わると同時に、車内を支配していた極めて粘着質な水音、「ズズッ、ジュボッ」が、唐突に、完全に途絶えた。
走行音は消え失せている。 耳の奥で、自分自身の心臓が血液を送り出す重い脈動だけが、
「ドクン、ドクン」
分厚いゼリー状の空気の中でくぐもって反響する。 チカ、チカと不規則に明滅していた天井の赤い非常灯が、
放電
という微かな高周波の電気音と共に、ドス黒い赤色に完全点灯した。
光が固定される。 古いベルベットの座席に座る数十の肉塊たちの丸い影が、床や壁の木目調パネルにどす黒く貼り付き、微動だにしない。 彼らは、プラスチックの弁当容器を膝に置いたまま、ピタリと動きを止めている。
|摩擦《ギギギ……、ギギギギ……》。
錆び付いた巨大な鉄の扉が、油の切れた蝶番を軋ませるような、極めて重く遅い摩擦音が車内に連鎖した。 首の付け根の肉が、内側から捻れる音だ。 数十体の肉袋たちが、全員、全く同じゆっくりとした速度で、首だけを横に九十度回転させた。
のっぺらぼうの顔が、一斉にこちらへ向けられる。
そこには、光を反射する眼球も、対象を捉えるレンズも存在しない。 ただ、ツルリとした薄桃色の粘膜が並んでいるだけだ。 酸素の濃度は変わらないはずだ。 だが、空間の密度が極端に重くなる。
三十七度前後の生温かい微熱と、物理的な質量を伴う圧力が、全方位から皮膚に突き刺さってくる。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。 なぜ彼らは一斉に動作を停止し、こちらを向いたのか。 この空間の法則を論理的に分析すべきなのだろう。 だが、足元のカーペットから立ち上る酸っぱい嘔吐物の臭いと、カビの臭いが分厚い層を作って鼻腔の粘膜にべったりと張り付く。
息を吸い込むたび、この不潔な臭気が脳細胞間のシナプスの接続を細かく切断していく。
臭気が邪魔だ。
気管支がヒクッと引き攣り、まともな思考がドロドロに溶け落ちていく。 皮膚の表面がチリチリと静電気を帯びたように痛み、首筋の毛穴からドロリとした冷たい体液が分泌される。
ボタンを弾く。カチッ。
ショーケースに並んだ肉の鮮度を測るような、極めて事務的な質量がのしかかる。
「や、べえ……」
通路を挟んだ向こう側で、スカジャンを着た金髪の男が、喉の奥を鳴らして一歩後ずさった。 そのゴム底の靴が、水分を含んで膨張したカーペットの繊維と擦れる。
摩擦。
鈍い音を立てる。 その僅かな摩擦音にすら、数十ののっぺらぼうの顔が、一斉に数ミリだけ角度を修正してピントを合わせ直す。
紺色のパンツスーツを着た女が、震える右手を腰のベルトへ伸ばした。 硬い金属のグリップ、特殊警棒に指をかける。 その指の関節は白く変色するほど力んでいるのに、カタカタと微細に痙攣して、警棒は抜けない。
彼女の荒い呼気が、充満する酸っぱい嘔吐物の臭いと混ざり合い、顔面に吹き付けられる。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が溜まっていく。 ここで声をかけ、彼らの無謀な動きを制止すべきなのだろうか。
だが、私はただ薄目を細め、他人が恐怖に凍りつく様を観察していた。 彼らが勝手にパニックを起こし、あの肉袋たちの標的になってくれれば、自分だけは安全な暗がりに身を隠すことができる。 他者がどれほど追い詰められようと、自分が過去の罪を追及されるよりはマシだ。 そんな極めて卑小で利己的な逃避本能が、彼らに手を差し伸べるエネルギーを根こそぎ奪い取っていく。
その時。 「私」の右手のポケットの底で、脈動が起きた。
拍動。
氷塊のように冷え切っていた佐渡赤玉石の札が、心臓のリズムと完全にズレた波長で、爆発的な熱を発し始めたのだ。 溶接機から火花を散らした直後の鉄塊を、素手で握りしめたような、純粋な物理的熱源。
熱傷。
掌の皮膚が「チリチリ」と音を立てて焦げる。 タンパク質が変性し、融けた皮下脂肪が石の表面で沸騰して微細な気泡を弾けさせる。 皮膚と石が、絶対的な高熱によってドロドロに癒着していく。
肉が焼ける香ばしい悪臭が、鼻腔の奥の嘔吐物とカビの臭いを強引に上書きしていく。
痛い。
鋭利な痛覚のパルスが脳髄の表面を直接削り取る。 左手でパジャマのボタンを弾く。
カチッ。カチッ。
この焼け焦げる掌の激痛だけが、都合の良い言い訳となる。 痛いから何もできないのだと、自分の怯えと自己中心的な選択を、強引に肉体の負荷へとすり替えているだけだった。 網膜の裏側でチカチカと明滅する空間の揺らぎを強引に押さえ込み、意識を肉体に縫い留める。
破壊。
静寂を破り、正面の座席に座っていた肉袋の一体が、ゆっくりと立ち上がった。 骨が外れ、また組み直されるような、極めて湿った破壊音の連鎖。 手足が、元の長さの1.5倍ほどに、ゴムのように引き伸ばされている。
のっぺらぼうの顔が、天井の赤い光を反射してゆらゆらと揺れながら、こちらを見下ろした。 横の女の喉から、ヒッ、と空気が漏れる。 警棒を無理やり引き抜こうとする彼女の腕の筋肉が硬直している。
ボタンを弾く。
カチッ。
「私」は、大きくずらした顎の隙間から、掠れた摩擦音を絞り出した。
「……動くな」
声帯は震えない。 だが、その呼気は、焼ける肉の臭いと共に、確実にこの分厚いゼリー状の空気の層へドロリと浸透していった。 それは彼らを守るための勇敢な警告などでは決してない。
彼らが無闇に動いてこれ以上波風を立てれば、自分にまで火の粉が降りかかる。 だから大人しくしていてくれという、ただの醜く利己的な制止の音声だった。
カチッ。
ただプラスチックの反復音だけが、三十七度の生温かい車内に響き続けていた。




