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――第 021 幕 貪食する虚空――

 赤い非常灯が、ドス黒い光の帯となって空間を一定の周期で舐め回す。 車内の空気は、気体としての軽さを完全に喪失している。 目に見えない高粘度のゼリーが充満し、息を吸い込むたびに気管支がヒクヒクと細かく引き攣り、肺の奥底に生温かい砂利が沈殿していく。

 立ち上がった数十の肉塊が、狭い通路を完全に塞いでいる。 彼らのまとっている布地からは、雨水に濡れて腐敗した古い畳の湿気と、ひどく埃っぽくカビ臭いガスが絶え間なく吐き出され、鼻腔の粘膜(ねんまく)にべっとりと張り付く。

 息が、できない。

 この不潔な臭気が邪魔だ。 彼らの正体を論理的に分析し、突破口を探るための思考の結線が、ドロドロに溶け落ちていく。 まともな論理が組み上がらない。

 ズズッ。ズズッ。

 骨と軟骨が不規則な角度で擦れ合う「メキッ」という物理的な破壊音を伴う歩行。 圧倒的な肉の質量が、前方の空気を圧縮して押し寄せてくる。 「私」は床に這いつくばる。

 左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。 右手の掌で、皮膚を焼き焦がす佐渡赤玉石(さどあかだまいし)の高熱に、奥歯の詰め物をギリリと軋ませる。 タンパク質が変性し、融けた皮下脂肪が石の表面で沸騰する臭いが、空間のカビの臭いを強引に上書きしていく。

 それはまるで、泥の底に沈めたはずの……いや、違う。 なんだろう、あれは。 どうでもいい。 この熱傷(ねっしょう)の激痛の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。

 ボタンを弾く。カチッ。

「寄るな! 刺すぞ、コラァ!」

 頭上で、空気が引き裂かれるような音波が弾けた。 金髪の男。 彼の手には、鋼のバタフライナイフが握られている。 その声の波形は、分厚いゼリー状の空気の層に物理的に押し潰され、語尾が不規則な高周波へとひしゃげて裏返る。

 ナイフを構える彼の手首の筋肉が、電流を流されたように小刻みに跳ね、視界の端で刃先がチカチカと明滅する。 ゴム底の靴が、水分を含んで膨張(ぼうちょう)したカーペットの繊維と擦れて「ズリッ」と鈍い音を立てる。 彼の踵が、座席の縁にぶつかった。

 ボタンを弾く。カチッ。

 男の気管支がヒクッと引き攣り、ひび割れた唇から酸っぱい唾液(だえき)が飛沫となって飛ぶ。 彼は、全身の体重を乗せ、最も近くに迫っていた肉塊の腹部へ向けてナイフを力任せに突き出した。

 接触。グチュリ。

 刃先が肉の表面に沈み込む。 だが、鋼の刃が肉を裂く音は鳴らない。 肉塊の表面から滲み出した極めて粘度の高い黄色い分泌液(ぶんぴつえき)が、刃先から金属の柄へと一瞬で絡みつく。

 微細な気泡が弾け、鋼がドロドロの液状に崩れていく。

「俺の……指が……」

 男の口から、ヒューッという乾いた排気音が漏れる。 ナイフを握っていた彼の右手の指先。 皮膚の表面が黄色い粘液(ねんえき)と混ざり合い、指紋の溝がズルリと平坦に溶け落ちていく。

 彼は溶けていく指先を反対の手で強く握りしめ、顎からボロボロと唾液を垂れ流しながら、水分を含んだカーペットの上をズリッ、ズリッと後ずさった。

 尻から床へ崩れ落ちる、鈍く湿った水音が響く。

 私は彼に声をかけ、引き戻すべきなのだろう。 だが、私はただ床に這いつくばったまま、彼の指が溶け落ちていく様を薄目で見つめていた。 恐怖で動けないのではない。

 彼がこのまま肉塊の標的となって溶かされてしまえば、自分だけは少しでも長く安全な暗がりに身を潜めていられるかもしれない。 あの不潔な病室で暴かれた過去の罪と向き合うくらいなら、他者を犠牲にしてでも自分の輪郭を保ちたいという、極めて卑小で利己的な逃避本能が、彼に手を差し伸べるエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。

 肉袋の表面が、ドクンと重い水音を立てて波打った。

 三十七度の生温かい空間の中で、鋼の刃も人間の皮膚も、ただのタンパク質と鉄分の混ざったドロドロの液体として飲み込まれていく。 「私」は大きく顎をずらし、過剰な唾液をゴクリと飲み下す。 左手でパジャマのボタンを弾く。

 カチッ、カチッ。

 赤い非常灯の下。 ただ肉が擦れる粘着音と、プラスチックの反復音だけが、カビと焦げた肉の悪臭の中で鳴り続けていた。


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