――第 080 幕 貪り食う食堂車――
「食べるなッ!」 喉の奥の粘膜が引き裂かれるような、掠れた摩擦音が飛び出した。 「私」はサイズの合わない革靴に力を込め、目の前の純白のテーブル――透明な油を滴らせる巨大な脂身の塊――を力任せに蹴り飛ばした。
反転。
脂の塊が横転し、陶器の皿が床にぶちまけられる。 空間を包んでいた白熱灯の光が「ブツン」と消滅した。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 どす黒い赤色の肉壁と、咽せ返るような強烈な胃酸の臭気が爆発的に膨張する。 気管支がチリチリと焼かれる。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
金髪の男が腰を下ろしていた「木製の椅子」。 黄ばんで分厚い歯垢の付着した、巨大な「臼歯」だった。 蹴り飛ばした「テーブル」。 表面に無数の細かい突起を生やし、絶えず黄色い唾液を分泌する、分厚く湿った「舌」だった。 強烈な胃酸の悪臭が鼻腔を塞ぐ。
視界の端で、壁の模様が不規則に波打っている。 赤黒い肉壁の中に、無数の「人間の形をしたもの」が埋め込まれている。 その中の一体は、紺色の制服を着ている。 壁から伸びた太い血管のような管が何本も突き刺さっている。
「ジュルルル……」
水分を吸い上げる極めて湿った粘着音が、全方位から絶え間なく響き続けている。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 ボタンを弾く。カチッ。
「ひッ……」 紺色のスーツを着た警官の気管が細かく引き攣り、摩擦音が漏れた。 彼女の足元。 巨大な「舌」が、彼女の右足の足首に巻きついている。 彼女は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。
捕食。
黒いパンプスの表面が、高濃度の酸に触れてジュワジュワと微細な泡を立てて溶け始める。 舌の表面のザラザラとした突起が、溶けた靴の繊維を貫通し、彼女の皮膚へ直接根を張り始めた。
「離してッ!」 彼女は両腕を振り乱し、体重を後ろにかけて、捕らえられた右足を引き抜いた。
剥離。
靴と靴下が床の肉に飲み込まれ、残る。 彼女の右足の裏の皮膚と薄い脂肪層が、足の裏からごっそりと剥がれ落ちた。 露出した赤い筋繊維から、どす黒い血がポタポタと滴る。 床に残った「彼女の皮膚だったもの」が、痙攣と波打ち、彼女の方へ這いずる。 流れ出た血の甘い匂いが、強烈な胃酸の臭気とドロドロに混ざり合い、壁の蠕動がさらに加速する。 警官は床に倒れ込んだ。 血の流れる右足を抱え込み、喉の奥から濁った摩擦音を絞り出す。 彼女は上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせている。
ガチガチガチ。
「おい、逃げ……」 チンピラが立ち上がろうとするが、彼の足は動かない。 過剰な満腹感が、彼の胃袋から全身の筋肉へと鉛のような重さを伝播させている。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ、メキッ。
骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 ボタンを弾く。カチッ。
なぜ、この食堂車の構造と捕食のメカニズムを論理的に分析し、彼女を即座に引き剥がさないのか。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく胃酸の強烈な臭気と、血の甘い匂いが、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 この肉の壁はまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
いや、本当は違う。 私はただ、彼女が皮膚を剥がされて絶叫し、無様にのたうち回る様を薄目で見下ろしていたかっただけだ。 他人が本能と恐怖に支配され、自分以上に惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼らが異常であればあるほど、自分だけはまだ「正常な側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼らを助けるエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。
排気音。
四方を囲む肉の壁が、大きく動いた。 壁に無数に存在するヒダの隙間が一斉に開く。 そこから、胃の奥底に溜まっていた生温かい腐敗ガスが、押し出されるように噴出した。
『……イタダキマス……』
巨大な臓器から空気が抜ける生臭い排気音。 聴覚神経がチカチカと点滅し、網膜にザラザラとした砂嵐が走る。 その摩擦音が頭蓋骨を直接殴打する。
床の舌が波打ち始めた。 質量の塊となった「口」が、咀嚼を繰り返す。 「私」は大きくずれた顎を戻す。 顎の骨がゴリッと乾いた音を立てる。 右手のポケットの底で、氷塊のように冷え切った佐渡赤玉石を強く握り直す。 絶対零度の冷気が静脈を逆流し、脳髄の血管を凍らせていく。
この冷徹な物理的激痛に没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に酸っぱい味が広がる。 「私」は過剰な唾液をゴクリと飲み下した。 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。カチッ、カチッ。
むせ返るような生臭さと腐敗ガスがこもる空間に、ただ粘液の水音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




