――第 077 幕 漂う加熱臭――
足元の肉の床で、黄色い酸の泡と吐瀉物が微細な気泡を立てて混ざり合う。
ジュワッ、ジュワワッ。
四十度を超える熱風が、胃酸と吐瀉物の酸っぱい悪臭を巻き上げ、気管支の粘膜にべっとりと張り付く。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
空間の気圧が変化する。 鼻腔を塞ぐ酸の刺激臭の奥底から、ドロリとした重い気体が流れ込んできた。 脂が焦げるような、甘ったるい熱を帯びた匂い。
この未知の気体の成分を論理的に分析すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく、加熱された脂の甘い臭気と酸っぱい胃液の悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 ボタンを弾く。
カチッ。
「……あ」
横で、紺色のスーツを着た警官が、空気が極端に狭い気道を漏れ出るような摩擦音を鳴らす。 彼女の口から透明な唾液がツツーッと垂れ落ち、泥だらけのブラウスにシミを作る。 彼女は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 四十度の熱風が、甘ったるい匂いを膨張させる。
金髪の男の鼻翼がヒクヒクと動く。 彼の濁った瞳孔が極限まで見開かれる。 彼は自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ、メキッ。
骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 ボタンを弾く。
カチッ。
ヨレたカーディガンを着た助手は、酸で爛れた右頬をピクピクと痙攣させながら、空間の臭気を肺の底まで深く吸い込む。 彼の口角が両耳の付け根に向かってゆっくりと吊り上がる。 顔の筋肉が固定されたまま、上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。
ガチガチガチ。
私は、未知の匂いに魅了され狂い始めている彼らを制止し、冷静な判断を促すべきなのだろう。 だが、私はただサイズの合わない革靴を汚泥に沈めたまま、彼らが脂の匂いに本能を剥き出しにし、無様に涎を垂らす様を薄目で見下ろしていた。 他人が本能に支配され、自分以上に惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼らが異常であればあるほど、自分だけはまだ「正常な側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼らを止めようとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。
「私」の右手のポケットの底。 完全に炭化して肉と癒着した佐渡赤玉石が、絶対零度の冷気を放ち続けている。 冷たさが掌の血管から静脈を逆流し、脳髄の血管を凍らせていく。 胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液をゴクリと無理やり飲み下した。
この冷徹な物理的激痛に没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
四十度を超える熱風と甘ったるい腐敗臭がこもる空間に、ただ粘液の水音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




