――第 076 幕 恥辱の強酸――
壁の粘膜にへばりついていた光が、輪郭を失う。 熱せられた蝋のようにドロドロに溶け出す。 壁の表面から「ジューッ」と肉の焼けるような音が鳴り、足元の床へ吸い込まれていく。
直後。
壁の無数の毛穴が一斉に開いた。 そこから、黄色く濁った液体が霧となって勢いよく噴き出し始めた。 四十度を超える熱風に乗って、強烈な酸の臭気が膨張する。 気管支がチリチリと焼かれる。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
「あんたたちも……同類よ。ただの、薄汚いクズじゃないッ!」 黄色い霧の中で、紺色のスーツの女の引き攣った摩擦音が響いた。 彼女は床の肉に這いつくばったまま、自分の制服の裾を強く握りしめている。
破断。
生地の繊維が引きちぎられる。 彼女の眼球は、デタラメな方向へ泳いでいる。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で微小な火花が弾ける。 彼女は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 彼女の口の端から、ツツーッと黄色い泡が垂れ落ちた。 それが足元の肉の床に触れ、ジュワッと微細なクレーターを穿つ。 ボタンを弾く。
カチッ。
「てめえら、俺の事、何も見てねえよな?」 数メートル先。 金髪の男が、バタフライナイフを構え、その切っ先を暗闇に向けて振り回している。 彼の瞳孔から、異常な量の水分が溢れる。 彼は、床に這いつくばる警官と、ブツブツと譫言を垂れ流す助手を見下ろしている。 彼の下腹部にドロリとした熱が集まる。 口内に過剰な唾液が湧き出す。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ、メキッ。
骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 酸の臭気が鼻腔を塞ぐ。
「へっ、お高い女刑事様も、ガキの死体見てゲロ吐くんだな。インテリもポリ公も、皮を剥けば俺と同じじゃねえか」 彼の口角が、上へ吊り上がる。 口を動かすたびに、その隙間から黄色い酸の泡がこぼれ落ちる。 飛沫がナイフのステンレスの刃に付着し、チリチリと白い煙を上げる。
「ち、違う。僕のじゃない!」 ヨレたカーディガンを着た助手が、酸で赤く爛れた右頬をピクピクと痙攣させながら、早口で単語の羅列を吐き出す。 両手で自分の頭を抱え込み、ひび割れた眼鏡の奥で血走った眼球をギョロギョロと動かしている。 頭蓋骨の裏側で青白い火花が散る。
「君たちのような底辺に、僕の……ッ」 彼が口を動かすたび、黄色い酸が飛沫となって飛び散る。 自身の白衣の残骸に降りかかり、布地を黒く焦がしていく。 肉の焦げる悪臭が鼻腔を塞ぐ。 彼らの口腔から発生する黄色い酸が、狭い回廊の空気を汚染していく。 空間の温度が跳ね上がる。 息を吸い込むたびに、気管支の粘膜がヒリヒリと痛む。 三つの摩擦音が反響し、ハウリングを起こす。 「キィィィィン」という高周波が、鼓膜を直接貫き続ける。
この異常な酸の発生源と成分を論理的に分析すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく強烈な酸の刺激臭と肉の焦げる悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
私は、狂乱して互いの罪を暴き合う彼らを止め、この連鎖する自傷行為から引き戻すべきなのだろう。 だが、私はただ壁から一歩離れた場所で立ち尽くし、彼らが醜く罵り合い、酸を撒き散らして無様に崩壊していく姿を薄目で見下ろしていた。 他人が過去の罪に苛まれ、自分以上に惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた自分自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 「私」の壁には、まだ何も映っていない。 自分だけはまだ「正常で、潔白な側の人間」なのだという錯覚にすがりつきたいという、極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼らを助けようとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。
右手のポケットの奥。 完全に炭化して癒着した佐渡赤玉石は、絶対零度の冷気を放ち続けている。 「私」の肺が緩む。 深く、呼吸を促す。
この冷徹な痛覚に没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な傍観者であるかのように振る舞えるという浅ましい自己欺瞞。
だが。 胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に酸っぱい味が広がる。 視神経がチカチカと点滅し、網膜にザラザラとしたノイズが走る。 「私」は大きくずらした顎を戻す。 胃の底に澱んでいた冷たい泥水が、食道へと這い上がる。
「オエッ……」
「私」は、酸っぱい胃液と苦い唾液を、足元の肉の床へ一気にぶちまけた。
溶解。
吐瀉物が床に触れ、黄色い煙を上げる。 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 ボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
「私」の口からも、彼らと同じ黄色い酸の泡が、絶え間なく溢れ出し続けていた。 四十度を超える熱気と酸の悪臭がこもる車内で、ただ粘液の水音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




