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――第 075 幕 酸と光の粘膜――

「シャーッ……」 炭酸飲料の泡が弾けるような、あるいは細かい砂利が波に洗われるような、酸の海鳴りが響く回廊。 甘ったるい線香の匂いが、気管支の粘膜(ねんまく)にねっとりとへばりつく。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。

 ツルツルとした半透明の肉の壁が、唐突に「ボゥッ」と鈍い光の波長を放ち始めた。

 明滅(カシャッ)

 頭蓋骨の裏側で、硬い骨と骨が乱暴に擦れ合うような乾いた摩擦音が鳴る。 壁の奥を流れていたどす黒い液体が薄れ、そこに光の粒子が浮かび上がった。 先頭を歩いていた紺色のスーツの女の足が止まる。 粘膜の向こう側に浮かんでいるのは、土砂降りの雨に打たれる路地裏。 地面に転がっているのは、青黒く変色し、パンパンに膨れ上がった肉の塊。

 この壁が過去の視覚情報を抽出するメカニズムを論理的に分析し、警戒を促すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく甘ったるい線香の匂いと、冷たい雨の湿った臭いが、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。

 この不快な臭気が邪魔だ。

 気管が細かく痙攣(けいれん)し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。

 どうでもいい。

 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。

「あ……違う、見ないで……」 警官の喉から、空気が漏れるような摩擦音が鳴る。 彼女は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。 光の粒子の向こう側の彼女は、胃液(いえき)をアスファルトに吐き出している。 現在の彼女は、枯れ枝のような右腕を抱え込みながら、左手で壁の光を隠そうと腕を伸ばす。

 接触(ジュッ)

 彼女の掌が粘膜に触れた部分が、熱を発した。 粘膜の細胞が微細に波打ち、光の粒子が極限まで凝縮される。 吐瀉物(としゃぶつ)がアスファルトに広がる光景が、彼女の網膜を物理的に焼く。 視界の端が白くチカチカと明滅する。 ボタンを弾く。

 カチッ。

 明滅(カシャッ)

 頭蓋骨の裏側で骨が擦れる。 右頬が(ただ)れた助手の視線の先で、壁の光の波長が切り替わる。 壁の向こう側の助手は、背後に立つ男の怒号を浴びながら、マウスを握っている。 「……脳波の投影だ。この粘菌が、シナプスを形成して……」 助手は早口で音素の羅列を吐き出す。 ひび割れた唇が微かに震える。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 ガリッ、メキッ。

 骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。

 カチ、カチ、カチ。

 壁の向こうのマウスをクリックする音が、現在の助手の心臓の鼓動と完全に同期し、彼の肋骨を直接叩く重低音となって響き始める。 助手の顔面からドロリとした冷たい体液(リンパ)が滲み出し、ボロボロになった白衣の襟元にドス黒い染みを作っていく。

 私は彼らを壁から引き剥がし、この残酷な映像から救い出すべきなのだろう。 だが、私はただ右手をポケットに沈めたまま、彼らが自身の過去の罪悪感に焼かれ、無様に壊れていく様を薄目で見下ろしていた。 他人が自分以上に凄惨な過去を突きつけられ、惨めに崩壊してくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼らが異常であればあるほど、自分だけはまだ「正常で、力のある側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼らに手を差し伸べるエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。

「私」の右手のポケットの底。 完全に炭化(たんか)して肉と癒着(ゆちゃく)した佐渡赤玉石(さどあかだまいし)が、絶対零度の冷気を放ち続けている。 冷たさが掌の血管から静脈(じょうみゃく)を逆流し、脳髄の血管を凍らせていく。 胃壁(いへき)が雑巾を絞るように激しく収縮(しゅうしゅく)し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液(だえき)をゴクリと無理やり飲み下した。

 この冷徹な物理的激痛(ペイン)に没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。

 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。

 カチッ、カチッ。

「私」の壁には、まだ何も映っていない。 甘ったるい線香の匂いと胃酸(いさん)の酸っぱい臭いがこもる回廊で、ただ酸の波の音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。


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