――第 074 幕 酸の海鳴り――
下り勾配の広間。 サイズの合わない革靴の底が、ツルツルとした分厚いガラスのような床を擦るたびに、「キュッ、キュッ」と摩擦音が鳴る。 前方から、細かい砂利が波に洗われるような「シャーッ……」という連続音が低く這い上がってくる。 古い線香と、何十年も放置されたドライフラワーを乱暴に混ぜ合わせたような、甘ったるい匂いが充満している。 吸い込む空気が、ハッカの結晶を直接肺の奥底に塗り込まれたように冷たい。 鋭利な冷気が気管支を通り抜け、内臓の温度を奪う。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
「あ……、あ……」
警官の喉から、空気が擦れる乾いた摩擦音が漏れる。 彼女は枯れた右腕を胸に強く抱き込み、自分の親指の爪を左手の人差し指に深く食い込ませる。 ジワリと血が滲む。 彼女は上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。
ガチガチガチ。
甘ったるい匂いが膨張する。 ボタンを弾く。
カチッ。
この空間の材質と異常な冷気の出所を論理的に分析し、彼女に警戒を促すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく古い線香とドライフラワーの甘ったるい匂いが、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不快な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
いや、本当は違う。 私はただ、彼女が恐怖と寒さに耐えきれず、無様に自傷を繰り返す様を薄目で見下ろしていたかっただけだ。 他人が自分以上に惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼らが異常であればあるほど、自分だけはまだ「正常で、力のある側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼女に手を差し伸べるエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。
「私」は、石札と完全に癒着した右腕の痛みに呼吸を浅くし、半透明の壁へと近づいた。 左手の指先を、壁の表面に触れさせる。
液体窒素に触れたように、指先の皮膚が一瞬で壁に張り付き、細胞が凍死する鋭利な痛みが走る。
壁の奥の青黒い暗がりに、「私」自身の顔が反射して映り込んだ。 頬がこけ、目元に濃い影が落ちている。 壁の奥に映る顔の口角が、耳の付け根まで裂けるように吊り上がっていく。 ニヤリと、両端が限界まで引き伸ばされた形に固定される。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。
「ッ……」
「私」は反射的に、左手を壁から引き剥がした。
ビリッという微細な音が鳴り、指先の薄皮がめくれ、壁の表面にわずかな血の跡が残る。
右手の掌から静脈を逆流する熱と、左指の凍傷。
この冷徹な物理的激痛に没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に酸っぱい味が広がる。 「私」は大きく顎をずらし、過剰な唾液をゴクリと飲み下した。
左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 ボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
古い線香の甘ったるい匂いと絶対零度の冷気がこもる空間に、ただ波の音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




