――第 071 幕 先導する背中――
足元の床に散らばる触手の残骸から、黄色い体液が微細な気泡を立てて滲み出している。 踏み潰された肉片から、アンモニアと腐った魚の内臓を乱暴に混ぜたような鋭い悪臭が立ち上る。 気温はおよそ四十度。 サウナのように淀んだ熱気の中で、気化した胃酸の霧が分厚く重なり合う。 呼吸をするたびに肺胞の裏側がチリチリと焼かれ、気管支がヒューヒューと狭く軋む。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
金髪の男は、口角を限界まで上へ引き上げ、乱抗した歯を剥き出しにしている。 ヨレたカーディガンを着た助手は、虚空を指先でなぞり続けている。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ、メキッ。
骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 アンモニアの臭気が膨張する。 ボタンを弾く。
カチッ。
紺色のスーツを着た警官の顔面から、黄色く変色した粘り気のある水分が滲み出し、結露と混ざり合っている。 彼女の眼球の毛細血管が破裂し、白目が赤く染まる。 上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。
ガチガチガチ。
彼女は自分の下唇を犬歯で深く噛みちぎり、ドス黒い血が顎を伝って垂れ落ちる。 四十度の熱風が胃酸の悪臭を運んでくる。 彼女は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。
「私」の右手のポケットの底。 完全に炭化して肉と癒着した佐渡赤玉石が、絶対零度の冷気を放ち続けている。 掌の血管から静脈を逆流する冷気が、胃壁を雑巾を絞るように激しく収縮させる。 前方を歩く金髪の男の背中が揺れる。
粘着。
サイズの合わない靴底が床の体液を引き剥がす、極めて湿った摩擦音が響く。
私は、危険な先頭を代わり、この状況を打開するための合理的なフォーメーションを構築すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつくアンモニアと腐った魚の内臓の悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。 どうでもいい。 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
いや、本当は違う。 私はただ、彼が先頭で未知の酸に焼かれ、恐怖に顔を引き攣らせて肉の裂け目をこじ開ける様を、安全な背後から薄目で見下ろしていたかっただけだ。 他人が自分より先に傷つき、惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた自分自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼らが異常であればあるほど、自分だけはまだ「正常で、力のある側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、先頭に立つエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。
「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液をゴクリと飲み下した。 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
この冷徹な物理的激痛に没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
「私」は、無言のまま、男が開いた肉の裂け目へと向かって歩き出した。 四十度を超える熱気とアンモニアの悪臭がこもる空間に、ただ粘液の水音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




