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――第 068 幕 眼窩の奥の空白――

 四十度を超える熱気が、黄色い酸の霧を伴って気管支の粘膜(ねんまく)にべっとりと張り付く。 助手の両手の親指が、自らの眼窩の奥深くへ沈み込んでいる。

 ジュルリ。

 眼球の硝子体と周囲の脂肪組織が圧迫され、極めて湿った水音が響く。 腐ったレモンと古い血の鉄錆臭が、空間のゼリーの中に分厚く広がる。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。

 助手の喉の奥から、空気が極端に狭い気道を漏れ出るような濁った摩擦音が鳴る。 「入力……再構築……」 彼の口の端から透明な唾液(だえき)がとめどなく溢れ出し、酸でボロボロになった白衣の襟元を汚す。 両耳に向かって裂けるように固定された口角。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 ガリッ、メキッ。

 骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 ボタンを弾く。

 カチッ。

 紺色のスーツを着た女は、壁の肉に背中を押し付け、上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせている。

 ガチガチガチ。

 金髪の男は床の黄色い粘液(ねんえき)の上でうずくまり、ヒューッという濁った排気音を漏らしている。 四十度の熱風が酸の悪臭を膨張させる。

 助手の指が、自らの眼窩から引き抜かれた。 ドス黒い血と黄色い脂肪組織が混ざった液体が、彼の爛れた頬を伝って滴り落ちる。 彼は、何も映さなくなった眼球のまま、その汚れた指先を脈打つ肉の壁へと伸ばした。

 なぜ彼がこのような異常な自傷行為に至り、壁に何を求めているのか、そのメカニズムを論理的に分析すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく腐ったレモンと古い血の鉄錆臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。

 この不潔な臭気が邪魔だ。

 気管が細かく痙攣(けいれん)し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。 どうでもいい。 この不快な極彩色の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。

 私は、狂気に呑まれた彼を止めて、その自傷行為から引き戻すべきなのだろう。 だが、私はただ右手をポケットに沈めたまま、彼が過剰なデータに脳を焼かれ、自らの眼窩を抉って無様にのたうち回る様を薄目で見下ろしていた。 他人が論理を手放し、自分以上に惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼らが異常であればあるほど、自分だけはまだ「正常で、力のある側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼に手を差し伸べるエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。

「私」の右手のポケットの底。 完全に炭化(たんか)して石札と癒着(ゆちゃく)した佐渡赤玉石(さどあかだまいし)は、絶対零度の冷気を放ち続けている。 冷たさが掌の血管から静脈(じょうみゃく)を逆流し、脳髄の血管を直接凍らせていく。 胃壁(いへき)が雑巾を絞るように激しく収縮(しゅうしゅく)し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きく顎をずらし、過剰な唾液(だえき)をゴクリと無理やり飲み下した。

 この冷徹な物理的激痛(ペイン)に没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。

 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。

 カチッ、カチッ。

 四十度前後の熱風と酸の悪臭がこもる車内で、ただ粘液の滴る水音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。


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