――第 067 幕 裏返る視界――
黄色く濁った蒸気が、空間の奥行きを完全に食いつぶしている。 気温はおよそ四十度。 呼吸をするたびに、酸を煮詰めた泥のような重い気体が肺胞にへばりつく。 天井のひしゃげた通気口から黄色い霧が絶え間なく噴き出し、気管支がチリチリと焼かれる。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な極彩色の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
壁面の肉が「ドクン、ドクン」と脈打つたびに、空気が不規則に圧縮され、鼓膜が内側へと押し込まれる。 四十度の熱風と酸の臭いが鼻腔を塞ぐ。 「私」は、完全に炭化して石札と癒着した右手を胸に抱えたまま、浅く短い呼吸を繰り返す。 右腕の血管から静脈を逆流する絶対零度の冷気が、胃壁を雑巾を絞るように激しく収縮させる。 「私」は大きく顎をずらし、過剰な唾液をゴクリと飲み下した。 ボタンを弾く。
カチッ。
数歩先。 ヨレたカーディガンを着た助手が立っている。 酸の直撃を受けた右頬の皮膚は、水膨れが破れてゼリー状に爛れ、白衣の襟元とベッタリとくっついている。 彼は、自分の顔から銀縁眼鏡をもぎ取るように外した。 強烈な湿度と、彼自身の傷口から滲み出る黄色い浸出液、そして酸の飛沫がドロドロに混ざり合い、レンズをドス黒い油膜で覆い尽くしている。
「見えない……データが、入力……」
彼は口から透明な唾液を垂れ流しながら、ボロボロになった白衣の裾でレンズを力任せに擦る。 酸で溶けかかった布が油膜を塗り広げる。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ、メキッ。
骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。
彼はその汚れたレンズを自らの顔に近づけた。 ザラついた舌先が、ガラスの表面を這う。
ジュルリ。
腐ったレモンと古い鉄錆を混ぜたような強烈な酸味が、彼の舌の細胞を直接焼く。 彼は上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。
ガチガチガチ。
彼は舌から大量の唾液を分泌させ、何度も、何度もレンズの汚れを舐め取ろうとする。 四十度の熱気の中で、酸の臭気がさらに膨張する。 ボタンを弾く。
カチッ。
彼は、唾液で濡れた眼鏡を再び顔に装着した。 耳にかけるプラスチックのツルが、汗と爛れた肉の脂をたっぷり吸い込んだ頭髪の間を滑り込む。
ヌルッ。
湿った摩擦音が鳴る。 装着した瞬間。 眼球の裏側で青白い火花が散る。
バチッ。
助手の喉の奥から、空気が極端に狭い気道を漏れ出るような濁った摩擦音が鳴る。 網膜の裏側を直接焼かれるような痛覚が走り、眼球の裏側の神経がチリチリと引き攣る。
眼鏡を通した視界。 網膜に異常な光量のデータが叩きつけられ、視界全体が砂嵐のようにザラザラと明滅する。 壁面を覆うピンク色の粘膜。 微細に蠢く絨毛。 ドス黒い血液を絶え間なく送り出す、太い静脈の生々しい拍動。 脳内に流れ込む過剰な入力波形が、視神経の束を物理的に圧迫する。
「ピントが……、レンズの位置が……」
助手の顔の筋肉が不規則に収縮と弛緩を繰り返す。 彼は、両手の親指を、眼鏡のレンズの表面に押し当てた。 眼球もろとも、レンズを自分の眼窩の奥深くまで力任せに押し込み始める。
メリュッ……。
眼窩に詰まった脂肪組織が圧迫され、水分を含んだ水風船を握り潰すような水音が鳴る。 彼は自らの爪を噛む。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 四十度の熱風に乗って、酸と古い血の臭いが濃くなる。
なぜ彼がこのような自傷行為に至るのか、視神経への過剰入力のメカニズムを論理的に分析すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく腐ったレモンと古い鉄錆の強烈な悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。
私は、彼を止めてその異常な自傷行為から引き戻すべきなのだろう。 だが、私はただ右手を胸に抱えたまま、彼が過剰なデータに脳を焼かれ、自らの眼窩を押し潰して無様にのたうち回る様を薄目で見下ろしていた。 他人が論理を手放し、自分以上に惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼らが異常であればあるほど、自分だけはまだ「正常で、力のある側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼に手を差し伸べるエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。
「私」の右手のポケットの底。 完全に炭化して石札と癒着した右掌。 冷たく重い石の塊が腕の先にぶら下がっている。 右腕の血管から静脈を逆流する絶対零度の冷気が、脳髄の血管を直接凍らせていく。
この冷徹な物理的激痛に没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液をゴクリと無理やり飲み下した。 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
パジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
白濁した視界の中で、自らの眼窩に指を突き立てる男のシルエットが不規則に揺れ続けている。 四十度を超える熱気と酸の悪臭がこもる空間に、ただ粘液の水音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




