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――第 066 幕 汚染された記録――

 気温はおよそ四十度。 高密度の湿気が、肺の底にヘドロのように澱んでいる。 助手の顔から立ち上る臭いが、鼻腔の奥の粘膜(ねんまく)をツンと刺した。 酸で溶け落ちた化学繊維の焦げた臭いと、タンパク質の肉が焦げる悪臭が混ざり合い、気管支がチリチリと焼かれる。 「私」は浅く息を吐き、大きくずらした顎を元に戻して耳抜きをした。 左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。 足元のカーペットを踏み込むたびに、「ジュブッ」と粘着質な音を立ててピンク色の分泌液(ねんえき)を吐き出している。

 数メートル先の通路。 ヨレたカーディガンを着た助手が、自らの右頬を押さえてうずくまっている。 顔面右半分の爛れた肉が、焦げた白衣の襟元と完全に癒着(ゆちゃく)している。 彼の気管が細かく引き攣り、首を微かに動かすたび、襟と頬の肉が引き合って「メリッ、メリメリッ」と引き攣れる音が狭い通路に反響する。 隣で、紺色のスーツを着た警官が、壁際まで無言で後ずさる。 彼女の毛細血管が破裂した眼球は空を向き、上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせている。

 ガチガチガチ。

 視界の端が白くチカチカと明滅する。 金髪の男は自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 ガリッ、メキッ。

 骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 四十度の熱風が、酸っぱい胃液の臭いと共に鼻腔を塞ぐ。

 助手は、爛れた顔のまま、震える左手で銀色のボイスレコーダーを顔の前に持ち上げた。 赤い録音ランプが、不規則に明滅している。 ボタンを弾く。

 カチッ。

「被験者……壁面より、音声反応、あり。成分は……」 ひび割れた唇の隙間から、酸っぱい唾液(だえき)の泡を飛ばしながら、早口の音素を押し出す。 彼は親指の腹で再生ボタンを強く押し込んだ。

 カチッ。

 硬質なプラスチックの反発音。 スピーカーの細かい網目から出力された波形が、鼓膜を直接叩く。 眼球の裏側で微小な火花が弾ける。

『……ボク、イイコニスルヨ……ママ……』

 変声期を迎える前の、舌足らずで甲高い少年の音声波形。 背景には、「グチュ、グチュ」という、水分を大量に含んだ何かを咀嚼し続けるような重い水音がこびりついている。

 助手の肉体が、ビクンと大きく跳ねた。 空間の気圧が急激に下がり、「私」の鼓膜がペコッと内側へへこむ。 四十度の熱風が酸っぱい悪臭と共に鼻腔を塞ぐ。 胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮する。 「私」は大きく顎をずらし、過剰な唾液をゴクリと飲み下した。

「違う……僕の、データじゃない。磁気異常だ……!」

 助手の眼球の毛細血管が赤く染まる。 彼は、レコーダーのスピーカー部分を、自らの親指の腹で激しく擦り始めた。

 摩擦(ギリッ、ギリッ)

 爪がプラスチックの網目に食い込み、指の腹が擦り切れて赤い血が滲む。 それでも、擦るのをやめない。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。 彼は、喉の奥から「ヒィッ」と壊れた笛のような音を鳴らし、レコーダーを床の脈打つ肉へ力任せに叩きつけようと腕を高く振り上げた。

 なぜ、この彼の持つ機械に、ここにいるはずのない人間の音声が記録されたのか。 磁気異常のメカニズムを論理的に分析すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく肉の焦げる悪臭と酸っぱい胃液の臭いが、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。

 この不潔な臭気が邪魔だ。

 気管が細かく痙攣(けいれん)し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。

 どうでもいい。

 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。

 しかし。 振り下ろされるはずの腕は、空中でピタリと止まった。 指が、銀色のボディから離れない。 頭蓋骨の裏側で青白い火花が散る。 彼はそのプラスチックの塊を、震える両腕で胸に強く抱き込んだ。 ボタンを弾く。

 カチッ。

 私は彼を止め、その狂乱から引き戻すべきなのだろう。 だが、私はただ右手をポケットに沈めたまま、彼が幻聴に怯えて無様に崩壊していく姿を薄目で見下ろしていた。 他人が過去のデータにすがりつき惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた自分自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 自分だけはまだ「正常な側の人間」なのだという錯覚にすがりつきたいという、極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼に手を差し伸べるエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。

「私」は、右手のポケットの底で絶対零度の冷気を放つ佐渡赤玉石(さどあかだまいし)の角に触れながら、ただその光景を見下ろしている。 完全に炭化(たんか)して癒着した右掌には、感覚がない。 右腕の血管から静脈を逆流する冷気が、脳髄を凍らせる。 この冷徹な物理的痛覚の欠落に没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。

 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。

 カリッ、カリッ。

 パジャマのボタンを弾く。

 カチッ、カチッ。

 肉の焦げる香ばしい悪臭が、四十度の熱気と共に肺の底に澱んでいく。 助手のひび割れた眼鏡の奥で、眼球が、規則性のない微細な痙攣(けいれん)を続けていた。 空間には、ただ粘液の水音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。


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