――第 065 幕 悲鳴を上げる生検――
気温は四十度を超えている。 空間は、胃酸の刺激臭を過剰に含んだ濃密な湿気によって黄色く白濁していた。 息を吸い込むたび、気管支がチリチリと焼かれる。 壁面は赤黒い筋肉の繊維が剥き出しになり、表面を這う血管の網目が、ドクン、ドクンと収縮と弛緩を繰り返している。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ臓器の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な極彩色の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
その肉の壁の前に、ヨレたカーディガンを着た助手が立っていた。 彼の眼球の白目の部分が濁った黄色に変色している。 酸の結露で汚れた銀縁眼鏡の奥で、瞳孔がデタラメな方向へ高速で揺れ続けている。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ、メキッ。
骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 右手に握りしめた錆びたカッターナイフの刃を、チキ、チキと押し出している。 ボタンを弾く。
カチッ。
「細胞の……配列を、構造の……」
早口の音素の羅列。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で微小な火花が弾ける。
「私」は、数メートル離れた場所で、サイズの合わない革靴を粘液の床に沈めたまま立っている。 完全に炭化して石札と癒着した右手には、感覚がない。 右腕の血管から静脈を逆流する絶対零度の冷気が、胃壁を雑巾を絞るように激しく収縮させる。
この冷徹な物理的激痛に没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
「私」は大きく顎をずらし、過剰な唾液をゴクリと飲み下した。
助手が、カッターの刃を壁の筋肉に突き立てる。
ザクッ。
刃が数センチ沈み込み、横へ引かれる。 常温で放置された生の鶏肉に刃物を押し込んだ時のような、極めて湿った粘着音が響く。
直後。
『痛イッ!』
壁を構成する筋繊維そのものが大きく蠕動した。 床の肉から靴底を抜け、脛の骨を伝って、直接頭蓋骨の裏側を殴打する重い振動。 その振動は、頭蓋骨の裏側で特定の人間の音声波形へと変形する。 よく通る、中年女性の甲高い摩擦音。 助手が幼い頃から聞かされ続けてきたであろう声色と一致する周波数が、鼓膜を直接削る。 ボタンを弾く。
カチッ。
なぜ壁が母親の悲鳴を上げるのか、その生態学的な反応を論理的に分析すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく強烈な胃酸の悪臭と四十度の熱風が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。
ジュバッ。
助手がカッターを引き抜いた。 壁の傷口から、限りなく透明に近い黄色い分泌液が、高圧の噴水のように噴き出した。 四十度の熱風に乗って、胃酸の悪臭が爆発的に膨張する。 液体が助手の顔面の右半分と、ヨレた白衣の胸元に直撃した。
ジュワワワッ。
白衣の化学繊維が茶色く変色し、白煙を上げてドロドロに溶け崩れる。 助手の右頬の皮膚が、微細な気泡を立てて沸騰し始めた。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!」
助手の口から濁った排気音が漏れる。 彼の気管が細かく引き攣る。 溶けた右頬の上皮組織がドロリとしたゼリー状になり、酸で焦げた白衣の襟元とベッタリと癒着していく。 彼が首を動かすたび、顔の肉と服の繊維が引き合って「メリッ、メリメリッ」と引き攣れる音が狭い通路に反響する。 彼は自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。
私は、彼を突き飛ばして酸の噴水から引き剥がし、応急処置をすべきなのだろう。 だが、私はただサイズの合わない革靴を粘液の床に固定したまま、彼が自らの顔を溶かして絶叫し、無様に崩れ落ちる様を薄目で見下ろしていた。 他人が狂気に呑まれ、顔を溶かして惨めに壊れてくれればくれるほど都合が良い。 彼らが異常であればあるほど、あの不潔な病室で暴かれた自分自身の罪の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 自分だけはまだ「正常な側の人間」なのだという錯覚にすがりつきたいという、極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼に手を差し伸べるエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。
「サンプル……データ……」
助手の右目は白濁し、頬の肉は削げ落ちている。 彼は、床に落ちたまだピクピクと動いている壁の肉片へと、震える指を伸ばした。 白衣の繊維と溶け合った自分の顔面の肉を引き攣らせながら、指先でその肉片をつまみ上げる。
「私」は、壁の傷口へ視線を移す。 カッターで裂かれた壁の断面は、すでに黄色い体液を固まらせていた。 それは周囲の肉を巻き込むようにして急速に膨張し、巨大な焦げ茶色の肉の塊となって傷口を完全に塞いだ。
助手の顔から立ち上る、肉の焦げる香ばしい悪臭が、サウナのような熱気と胃酸の臭気と混ざり合い、肺の底へと沈殿していく。 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
パジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
四十度を超える熱気と肉の焦げる悪臭がこもる空間に、ただ粘液の水音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




