――第 069 幕 狂気の培養――
壁の無数の極小の口が開く。 黄色い唾液がペッと吐き出される。 助手の右手の指先が、脈打つ肉の表面からずるりと滑り落ちる。 露出した赤い筋肉の代わりに、ピンク色の細かい肉芽が密集し、周囲の四十度前後の熱気を求めてヒクヒクと独立した蠕動を繰り返している。 サウナのような熱風とオゾン、生ゴミの発酵した臭気が空間に分厚く澱む。 息を吸い込むたび、気管支がチリチリと焼かれ、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
助手の顔の筋肉は弛緩している。 彼は自らの指先を目の前にかざし、瞬きもせずに凝視し続けている。 「わかったぞ……」 彼の喉の奥から、痰の絡んだ「ジュル、ジュル」という湿った摩擦音が漏れ出す。 ひび割れた眼鏡の奥で、彼の瞳孔は極限まで開ききっている。 ボタンを弾く。
カチッ。
「これは消化じゃない。……培養だ」 彼は、左手に持っていたボイスレコーダーに向かって、早口で囁き始めた。 「強酸も、粘液も、攻撃ではない。進化のための培地だ。僕たちは選ばれた検体だ。適応すれば、新しい生物になれる」 酸の飛沫で汚れたレンズの奥で、眼球が不規則に揺れる。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ、メキッ。
骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 彼は床に膝をつき、靴底が沈み込むほど溜まった黄色い粘液を、異形化した右手の指先でたっぷりと掬い上げた。
彼は、それを自らの右頬――酸で爛れ、白衣の襟と完全に癒着している傷口――へと、ダイレクトに塗りたくる。
ジュルリ。
えぐれた肉の断面が、その黄色い液体を音を立てて吸い込んだ。 ジュワジュワと微細な泡が立ち、爛れた肉が勝手に隆起して、粘液を内側へと取り込みながら新しい細胞へと塞がっていく。 サウナのような熱風に乗って、オゾンと生ゴミの悪臭がさらに濃度を増す。 彼は自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が散る。
なぜ彼がこのような異常な適応行動に歓喜しているのか、その病的な精神構造を論理的に分析すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつくオゾンと生ゴミの発酵した強烈な悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
「ああっ、データが……細胞膜の透過性が上がっている……!」 「私」は、右手のポケットの底で絶対零度の冷気を放つ石札を抱えながら、その光景を見下ろしている。 石の冷気が掌の血管から静脈を逆流し、胃壁を雑巾を絞るように激しく収縮させる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液をゴクリと飲み下した。
私は、狂気に呑まれた彼を止め、その自傷行為から引き戻すべきなのだろう。 だが、私はただ右手をポケットに沈めたまま、彼が未知の粘液に脳を焼かれ、無様に這いつくばる様を薄目で見下ろしていた。 他人が論理を手放し、自分以上に惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼らが異常であればあるほど、自分だけはまだ「正常で、力のある側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼に手を差し伸べるエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。
左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 ボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
「触らないでよッ!」
空気が弾けるような高い摩擦音。 背後の壁に寄りかかっていた紺色のスーツの女が、枯れた右腕を庇いながら、左手で彼を突き飛ばした。 彼女の指先が助手の肩に触れた瞬間、彼女は顔の筋肉を硬直させ、上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせながら後ずさる。
ガチガチガチ。
彼女は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
突き飛ばされた助手は、柔らかい肉の床の上をごろごろと転がった。 彼の顔の筋肉は弛緩したままだ。 床の粘液と泥にまみれながら、喉の奥を鳴らして「ヒッ、ヒヒッ」と音を漏らし続けている。 「データだ。拒絶反応もまた、一つの適応プロセスだ……」 彼は起き上がると、顔に張り付いていたひび割れた銀縁眼鏡をむしり取った。 プラスチックのツルが食い込んでいた右耳の付け根から、「メリッ」と皮膚が剥離する音が鳴り、黄色い体液が糸を引く。 オゾンの臭いが膨張する。 ボタンを弾く。
カチッ。
彼はその眼鏡を床の肉に押し付け、自らの踵で踏み砕いた。
パキィッ。
ガラスのレンズが砕け散る硬質な音が響く。 助手は、床から鋭利に尖ったレンズの破片を一枚拾い上げた。 「記録しなければ……外部ストレージに……」 彼は、そのガラスの破片の鋭い縁を、自らの左腕の無事な皮膚に押し当てた。 ガリガリと肉を削るように傷を刻み始める。 血は出ない。 代わりに、傷口からは薄黄色の浸出液が滲み出し、彼が腕に刻み込んでいる数式の羅列の周囲に付着していく。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。
「私」の鼻腔に、サウナのような四十度の熱気と共に、彼から発せられるオゾンと生ゴミが混ざったような強烈な悪臭が突き刺さる。 気管支がチリチリと焼かれる。
四十度を超える熱気とオゾンの悪臭がこもる空間に、ただ粘液の水音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




