――第 062 幕 凝固する食道――
四十度を超える熱気が、黄色い酸の霧を伴って気管支の粘膜にべっとりと張り付く。 赤錆の浮いた洗面台の下。 床の湿ったカーペットの上で、金髪の男が自身の喉仏を両手で力任せに掻きむしっている。 彼の指の爪が首の皮膚を深く抉り、ドス黒い血がツーッと顎を伝って滴り落ちる。 古い血の鉄錆臭が、胃酸の酸っぱい悪臭とドロドロに混ざり合い、鼻腔を塞ぐ。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
「ガッ……、ギィッ……」
男の口から、空気が極端に狭い気道を漏れ出るような濁った摩擦音が鳴る。 彼の飲み込んだ透明な液体が、食道の奥で急速に温度を奪い、ゼリー状の硬質な塊へと凝固を始めていた。 彼の首の静脈がミミズのように青黒く隆起し、眼球の毛細血管が破裂しそうなほど血走る。 彼は自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ、メキッ。
骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 ボタンを弾く。
カチッ。
ヨレたカーディガンを着た助手が、シンクに張り付いた透明な粘液を指先で掬い上げている。 彼はその指を、自らのひび割れた唇に擦りつける。
ズリッ。
「高分子……ポリマー……」 彼の口角が耳の付け根に向かってゆっくりと吊り上がる。 顔の筋肉が引きつり、笑顔の形に固定されたまま、上下の歯が不規則なリズムで激しくぶつかり合う。
ガチガチガチ。
視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で微小な火花が弾ける。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。
紺色のスーツを着た女は、壁の肉に背中を押し付け、自身の枯れた右腕を左手で執拗に擦り続けている。 摩擦音が響く。 彼女の口から透明な唾液がとめどなく溢れ出し、床の黄色い粘液へ落ちて微細な気泡を立てる。 頭蓋骨の裏側で青白い火花が散る。 ボタンを弾く。
カチッ。
この男の気道を塞ぐ未知の液体の成分を論理的に分析し、気道確保のための緊急処置を試みるべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻腔の奥へへばりつく胃酸の酸っぱい悪臭と古い血の鉄錆臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
いや、本当は違う。 私はただ、彼らが苦悶に顔を引き攣らせ、無様にのたうち回る様を特等席で薄目で見下ろしていたかっただけなのだ。 他人が本能に支配され、自分以上に惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼らが異常であればあるほど、自分だけはまだ「正常で、力のある側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼らを助けようとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。
「私」の右手のポケットの底。 完全に炭化して石札と癒着した佐渡赤玉石は、絶対零度の冷気を放ち続けている。 冷たさが掌の血管から静脈を逆流し、脳髄の血管を直接凍らせていく。 胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きく顎をずらし、過剰な唾液をゴクリと無理やり飲み下した。
この冷徹な物理的激痛に没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 ボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
男の足がビクンと大きく跳ね、床の汚泥を蹴り上げた。
ジュチャッ。
四十度前後の熱風と胃酸の悪臭がこもる車内で、ただ肉の擦れる粘着音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




