――第 063 幕 癒着する仮眠――
床の奥底から這い上がってきていた横揺れが、唐突に途絶える。 三十七度前後の生温かい大気の中で、「ドクン……ドクン……」という重い脈動だけが、サイズの合わない革靴の底から脛の骨を直接揺らしている。 空気の質感が変わる。 気管支をチリチリと焼いていた胃酸の刺激臭が薄れ、代わりに熟れすぎた果実が腐敗する寸前のような、甘ったるい臭気が熱を持った蒸気となって漂い始めた。 息を吸い込むたび、古い血の鉄錆臭が混ざり合い、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
鼻腔の奥の粘膜に、その甘い蒸気がねっとりとへばりつく。 上下の瞼が重く垂れ下がる。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で微小な火花が弾ける。 横で、金髪の男が顔の筋肉を非対称に歪ませながら、床の粘液に身をよじらせた。
ジュルリ。
粘液が糸を引く極めて湿った水音が響く。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ、メキッ。
骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 男の喉から、気管が細かく痙攣するような高い摩擦音が漏れる。 ボタンを弾く。
カチッ。
紺色のスーツを着た警官が、枯れ果てた右腕を抱え込み、上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせている。
ガチガチガチ。
彼女の口の端から透明な唾液が垂れ落ち、床の黄色い泥に混ざり合う。 甘ったるい腐敗臭と、アンモニアの臭気がドロドロに混ざり合い、息が詰まる。 ボタンを弾く。
カチッ。
この異常な空気の変化と、彼らの意識の混濁を論理的に分析し、警戒を促すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻腔の奥へへばりつく腐った果実とアンモニアの悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 熟れた果実の匂いは、まるでかつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
いや、本当は違う。 私はただ薄目を細め、彼らが疲労と悪臭に抗えずに泥の中で意識を手放していく様を、静かに見下ろしていたかっただけだ。 他人が完全に無防備となり、惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼らが異常であればあるほど、自分だけはまだ「正常で、力のある側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼らを叩き起こそうとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。
「私」の右手のポケットの底。 完全に炭化し、肉と癒着した佐渡赤玉石の角を、爪が食い込むほど強く握りしめる。
チリッ。
皮が裂け、微かに滲み出した自分の血の鉄錆臭。 傷口から這い上がる鋭利な痛覚が、脳髄の表面を直接ヤスリで削るようにチリチリと刺激する。 視神経が砂嵐のように明滅する。
この冷徹な物理的激痛に没頭していれば、自分が加害者ではなく無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に酸っぱい味が広がる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液をゴクリと無理やり飲み下した。 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 ボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
三十七度の微熱と腐った果実の甘い悪臭がこもる車内で、ただ肉の擦れる粘着音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




