――第 061 幕 ゼリー状の冷水――
気温はすでに四十度を超えている。 サウナのように淀んだ空気の中で、気化した胃酸の黄色い霧が肺胞の裏側をチリチリと焼く。 全身の毛穴から、酸っぱい液体が絶え間なく噴き出し、衣服の繊維を水を含んだ鉛のように重く沈ませていく。 舌が干からび、口腔内の上皮がザラザラと擦れ合う摩擦音が、頭蓋骨の裏側に直接響いた。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
「水分補給が……脱水……」 ヨレたカーディガンを着た助手が、ひび割れた唇から空気を漏らす。 彼の声帯の震えは完全に乾ききり、ただ喉の奥で砂を噛むような音を立てていた。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で微小な火花が弾ける。 ボタンを弾く。
カチッ。
車両の連結部付近。 ステンレス製の洗面台。 表面は高湿度と酸の霧によって完全に酸化し、ドス黒い斑点状の赤錆に覆われている。 正面の鏡は、黄色い脂じみた結露で完全に曇っていた。 足元のカーペットからは、踏み込むたびに「ジュブッ」と粘着質な水音が鳴る。 サウナのような熱気が肌を刺す。
金髪の男がシンクの前に立つ。 ズボンの太腿で指先を擦り合わせる。
ズリッ、ズリッ。
擦り切れたデニム生地の音。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 彼は赤錆の浮いた蛇口のハンドルをひねった。
通水。
配管の奥で異音がし、蛇口の先端から無色透明な液体が流れ落ちた。 男の空気が極端に狭い気道を漏れ出るような摩擦音が鳴る。 彼は両手をすり鉢状に組み合わせ、その液体をすくい上げ、泥と他人の体液で汚れた顔面をその手に埋める。 一気に口の中へ流し込む。
この配管から出る無色透明な液体の成分を論理的に分析し、彼に警告を発すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく胃酸の黄色い霧と赤錆の悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線がドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。 どうでもいい。 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
「私」は、数歩離れた場所で、サイズの合わない革靴を止めていた。 右手のポケットの底。 完全に炭化して肉と癒着した佐渡赤玉石が、絶対零度の冷気を放ち、静脈を逆流して脳髄の血管を凍らせていく。 胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に酸っぱい味が広がる。 「私」は大きく顎をずらし、過剰な唾液をゴクリと飲み下した。 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 ボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
男の動きが停止した。 「ゴクン」と水を飲み込もうとした彼の首の筋肉が不規則に隆起し、青黒い静脈がミミズのように浮き上がった。 胃酸の黄色い霧が鼻腔を塞ぐ。 次の瞬間、彼の眼球の表面からドロリとした冷たい水分が滲み出し、空気を切り裂くような濁った排気音が漏れた。
「ガハッ……! グボォッ!」
彼は洗面台のシンクに身を乗り出し、口から透明な粘液の塊がゴボゴボと溢れ出し、赤錆の浮いたシンクを汚していく。 胃酸の臭いが四十度の熱風に乗って濃度を増す。
助手が、フラフラと洗面台へ近づいた。 指先が、透明な粘液に触れる。
ジュルリ。
彼が自らの指を口へ運ぼうとする。 視神経がチカチカと点滅し、網膜にノイズが走る。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
私は彼らを止め、この得体の知れない毒液から引き離すべきなのだろう。 だが、私はただ薄目を細め、彼らが渇きに狂って未知の液体を貪り、無様にのたうち回る様を静かに見下ろしていた。 他人が本能に支配され、惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼らが異常であればあるほど、自分だけはまだ「正常で、力のある側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼らに手を差し伸べるエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。
「私」はただ立ち尽くしている。 右腕の神経を焼くような絶対零度の冷気と、シンクで白泡を吹いてのたうち回る男の靴音。 四十度前後の熱風と胃酸の悪臭がこもる車内で、ただ粘液の滴る水音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




