――第 060 幕 蛆の沸くワゴン――
酸の霧が充満する通路の奥。 壁面の肉が大きく波打つ陰に、銀色の人工物がめり込んでいる。 車内販売用のワゴン。 表面のステンレスはドス黒い斑点状の赤錆に覆われ、キャスターのゴムは溶け落ち、金属の骨組みが直接、ブヨブヨとした床の肉に沈み込んでいた。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な極彩色の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。 四十度前後の熱風が、腐肉の臭いと共に鼻腔にべっとりと張り付く。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
「……腹減った……」
金髪の男の口から、酸っぱい呼気が漏れる。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で微小な火花が弾ける。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ、メキッ。
骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 ボタンを弾く。カチッ。
男の上下の歯が不規則なリズムでぶつかり合う。
ガチガチガチ。
彼はビニールカバーを乱暴に掴む。 カバーの中。 表面がテカテカと光を反射し、三十七度前後の生温かい熱を帯びた袋。 男がそれを引き裂く。
極めて湿った、粘着質な水音が響く。
中から、白く脂ぎった蛆の群れが、黄色い体液と共に溢れ出す。 腐敗した生ゴミとアンモニアの入り混じった悪臭が、酸の霧の中で爆発的に膨張する。 息を吸うたび、気管支がチリチリと焼かれる。
このワゴンの存在意義と、発生した蛆の生態系を論理的に分析すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく腐肉とアンモニアの強烈な悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。
男の喉の奥から、空気が引き裂かれるような高い摩擦音が漏れる。 袋が床の肉へ落ちる。 男は両手を激しく振り払い、自分のズボンの太腿で手のひらを執拗に擦る。
ズリッ、ズリッ。
デニム生地と脂の擦れる音。 蛆の脂と悪臭が繊維の奥に押し込まれる。 視神経がチカチカと点滅し、網膜にノイズが走る。 彼は爪を噛む。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 アンモニアの臭気が鼻腔を塞ぐ。
胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に酸っぱい味が広がる。 男の口から、未消化の黄色い液体が足元の肉へぶちまけられる。
嘔吐。
酸の臭いが四十度の熱風に乗って濃度を増す。 彼は両膝をつき、粘液に塗れた手で床を掻きむしり、ヒューッという濁った排気音を漏らし続けている。 ボタンを弾く。カチッ。
私は彼を止め、その嘔吐から引き戻すべきなのだろう。 だが、私はただサイズの合わない革靴を粘液の床に沈めたまま、彼が飢えと悪臭に狂い、無様に胃液を吐き散らす様を薄目で見下ろしていた。 他人が本能に振り回されて惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた自分自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼らが異常であればあるほど、自分だけはまだ「正常で、力のある側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼に手を差し伸べるエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。
右手のポケットの底。 完全に炭化して石札と癒着した右の掌。 冷たく重い石の塊がぶら下がっている。 右腕の血管から静脈を逆流する絶対零度の冷気が、脳髄の血管を凍らせていく。
この冷徹な物理的激痛に没頭していれば、自分が無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液をゴクリと飲み下した。 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。カチッ、カチッ。
四十度前後の熱風と酸の悪臭がこもる車内で、ただ粘液の水音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




