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――第 059 幕 消化される呼吸――

 天井に等間隔で並ぶプラスチックの通気口。 ルーバーの隙間は熱でひしゃげ、内側から押し入ってきた赤黒い肉の(ひだ)が完全に塞いでいる。 そこから、熱を帯びた黄色い霧が絶え間なく「シューッ」と噴き出し続けている。

 車内の湿度は飽和状態を超え、空気そのものがドス黒く濁った黄褐色に染め上げられている。 霧の粒子が赤い非常灯の光を乱反射し、視界全体が砂嵐のようにザラザラと明滅する。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。

 どうでもいい。

 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。

 息を吸う。

 鼻の奥の粘膜(ねんまく)が、ツーンと鋭く刺された。 腐ったレモンと古い鉄錆を乱暴に混ぜ合わせたような強烈な酸味と金属臭が、四十度前後の熱風となって気管支にべっとりと張り付く。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。

「ヒッ……」

 横で、紺色のスーツを着た女の喉の奥から、空気が極端に狭い気道を漏れ出るような摩擦音が鳴る。 彼女は慌てて自分の口を両手で強く押さえた。 彼女は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。

 押さえた手のひらと口の隙間から、黄色い霧が絶え間なく吸い込まれる。 彼女の顔面からドロリとした冷たい体液(リンパ)が滲み出し、顎を伝って滴り落ちた。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で微小な火花が弾ける。 ボタンを弾く。

 カチッ。

 この空間の異常な気象条件と酸の成分を論理的に分析すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく腐ったレモンと古い鉄錆の強烈な悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。

 この不潔な臭気が邪魔だ。

 気管が細かく痙攣(けいれん)し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。

 衣服が、飽和した湿気と酸の霧を吸い込み、水を含んだ鉛のように重くのしかかる。 ポリエステルやウールの化学繊維が、肌にベッタリと張り付く。 布地を通し、酸の成分が浸透して、皮膚を外側からジュワジュワと微細な気泡を立てて溶かす。 動くたびに、布と溶けかけた皮膚が擦れ、チクチクとした微細な刺激が全身を這い回る。

 私は、苦しむ彼女に声をかけ、口を完全に塞ぐよう指示を出すべきなのだろう。 だが、私はただ右手をポケットに沈めたまま、彼女が酸に焼かれ、恐怖に顔を引き攣らせる様を薄目で見下ろしていた。 他人がパニックに陥り、自分以上に惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼らが異常であればあるほど、自分だけはまだ「正常な側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼女に手を差し伸べるエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。

「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液(だえき)をゴクリと飲み下した。 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、鉄錆の味が口内に広がる。

 カリッ、カリッ。

 パジャマのボタンを弾く。

 カチッ、カチッ。

 右手のポケットの底。 完全に炭化(たんか)し、石札と癒着(ゆちゃく)した右掌。 冷たく重い石の塊が腕の先にぶら下がっている。 右腕の血管から静脈を逆流する絶対零度の冷気が、胃壁(いへき)を雑巾を絞るように激しく収縮(しゅうしゅく)させる。

 この冷徹な物理的激痛(ペイン)に没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。

 ズチュ。

 サイズの合わない革靴の下で、床の肉が微かに波打った。 黄色い粘液(ねんえき)を滲ませながら、「ジュルリ」と粘着質な水音を立てる。 四十度前後の熱風と腐ったレモンの悪臭がこもる車内で、ただ肉の擦れる粘着音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。


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