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――第 058 幕 溶解する財布――

 空気が、目に見えるほど黄色く濁り始めている。 天井に等間隔でへばりつく蛍光灯の光が、充満する酸のガスによって不規則に屈折し、車内全体を濁った黄色に染め上げている。

 鼻腔の奥の粘膜(ねんまく)が、ツンとする鋭い刺激にチリチリと焼かれる。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で微小な火花が弾ける。 息を吸うたびに、肺胞の裏側に細かい針が刺さるような痛みが走る。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。

 背後で、湿った布が擦れる音がした。 金髪の男が、肌にへばりつくスカジャンを掴み、肩をよじっている。 酸っぱい脂汗(あぶらあせ)と異常な湿気。 化学繊維の裏地が彼の皮膚に張り付き、引き剥がされるたびに皮膚が赤く引きつる。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 ガリッ、メキッ。

 骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 ボタンを弾く。

 カチッ。

「あちぃな、クソッ」 男の口から濁った呼気が漏れる。 彼は額から滴る汗を手の甲で拭い、ズボンのポケットへ手を突っ込んだ。

 直後。

 熱傷(チリッ)

 男の喉から、極端に狭い気道を空気が擦れるような高い摩擦音が漏れた。 ズボンのポケットの裏地がジュワッと白煙を上げる。 彼は眼球をデタラメな方向へ回転させ、ズボンのポケットを裏返した。 溶けかかった革財布と、黒く変色した硬貨が床の肉へ落ちる。 金属と革が酸のガスと床の粘液(ねんえき)に触れ、微細な気泡を立ててドロドロに溶け出す。 黄色いガスが立ち上り、気管支を焼く。

 この溶解現象の化学的な組成と進行速度を論理的に分析すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく、革と金属が溶ける化学臭と酸っぱい脂汗(あぶらあせ)の悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。

 この不潔な臭気が邪魔だ。

 気管が細かく痙攣(けいれん)し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。 どうでもいい。 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。

 男の顔の筋肉が不規則に収縮(しゅうしゅく)し、上下の歯が激しくぶつかり合う。

 ガチガチガチ。

 彼は、溶けた金属とインクで黒く染まった手を、スカジャンの裾で執拗に擦り合わせ続ける。 ズリッ、ズリッ。 摩擦音が響く。 彼は爪を噛む。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。

 私は彼を落ち着かせ、これ以上の熱傷を防ぐための具体的な行動をとるべきなのだろう。 だが、私はただ右手をポケットに沈めたまま、彼が幻の資産に執着し、無様にパニックを起こす姿を薄目で見下ろしていた。 他人が物質的な執着に囚われて惨めに壊れてくれればくれるほど、自分だけはまだ「正常な側の人間」なのだという錯覚にすがりつきたいのだ。 彼らが異常であればあるほど、あの不潔な病室で暴かれた自分自身の罪悪感が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼に手を差し伸べるエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。

「私」の右手のポケットの底。 完全に炭化(たんか)して肉と癒着(ゆちゃく)した佐渡赤玉石(さどあかだまいし)の冷気が、掌の血管から静脈を逆流し、胃壁(いへき)を雑巾を絞るように激しく収縮(しゅうしゅく)させる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液(だえき)をゴクリと飲み下した。

 この冷徹な激痛(ペイン)に没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。

 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。

 カリッ、カリッ。

 ボタンを弾く。

 カチッ、カチッ。

 床の肉が、溶けた硬貨と革の液滴を包み込み、「ジュルリ」と粘着質な水音を立てて収縮(しゅうしゅく)した。 黄色い酸のガスと酸っぱい脂汗(あぶらあせ)の悪臭がこもる車内で、ただ肉の擦れる粘着音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。


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