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――第 057 幕 脈打つ床――

 天井に等間隔で張り付いた蛍光灯が、微細な電気音を立てて明滅を繰り返している。 薄暗い光が点滅するたび、足元のカーペットに染み込んだ赤黒い汚れが、太い血管の網目のようにどす黒く浮き上がっては沈む。 室温は四十度前後。 飽和した湿気の中、呼吸をするたびに「胃酸と古い血」を煮詰めたような熱い蒸気が、肺胞にねっとりとへばりつく。 気管支の粘膜(ねんまく)がチリチリと焼かれる。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。

「私」は、傾いたまま重い横揺れを繰り返す床から立ち上がろうと、サイズの合わない革靴に体重を乗せた。

 崩壊(グズッ)

 常温で何日も放置された果肉を、裸足で力任せに踏み抜いたような、繊維がグチャリと潰れる沈み込み。 靴底が数センチ埋没し、周囲の起毛素材から、ピンク色の白濁した分泌液(ねんえき)がじわじわと滲み出してくる。 胃酸と古い血の臭いが濃くなる。 ボタンを弾く。

 カチッ。

 この異常な床の変質とその成分を論理的に分析すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻腔の奥にへばりつく胃酸と古い血の悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。

 この不潔な臭気が邪魔だ。

 気管が細かく痙攣(けいれん)し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。

 どうでもいい。

 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。

「ヒッ……」

 すぐ横で、空気が極端に狭い気道を漏れ出るような摩擦音がした。 紺色のスーツを着た女が、壁に肩を預け、弾かれたように飛び退く。 彼女は自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。 視界の端が白くチカチカと明滅する。

 白濁した膿が、スニーカーの布地を透過し、内側の靴下の繊維へと深く染み込んでいく。

「クソッ、中まで……ッ」

 金髪の男の口から白濁した泡が吹き出す。 彼が動くたびに、靴の中で「ジュチュ、ネチャアッ」という、ひどく湿った摩擦音が狭い空間に反響する。 足の指の間に生温かい膿が入り込み、濡れた靴下の繊維が皮膚にべったりとへばりつく。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 ガリッ、メキッ。

 骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 ボタンを弾く。

 カチッ。

 私は彼らに声をかけ、この汚泥から抜け出すための合理的な手段を提示すべきなのだろう。 だが、私はただ薄目を細め、彼らが悪臭と膿にまみれてパニックを起こし、無様にのたうち回る様を静かに見下ろしていた。 他人が恐怖に支配され、惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼らが異常であればあるほど、自分だけはまだ「正常な側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼らを助けようとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。

「私」の右手。 完全に炭化(たんか)して石札と癒着(ゆちゃく)した掌。 今はただ、冷たくて重い石の塊が腕の先にぶら下がっている。

 痛覚がない。

 右腕の血管から静脈を逆流する冷気が、胃壁(いへき)を雑巾を絞るように激しく収縮(しゅうしゅく)させる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液(だえき)をゴクリと飲み下す。 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、鉄錆の味が口内に広がる。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。 ボタンを弾く。

 カチッ、カチッ。

「私」は、サイズの合わない革靴を、膿の海から引き剥がした。

 粘着(ネチャリ)

 靴底と床の間で、太い粘液(ねんえき)の糸が何本も引く。 四十度前後の熱気と胃酸の悪臭がこもる車内で、ただ肉の擦れる粘着音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。


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