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――第 056 幕 発汗する手すり――

 窓の外には、濃いピンク色の霧が滞留している。 肌にへばりつく大気。 三十七度前後の生温かさ。 飽和した湿度が、衣服の繊維を重く沈ませる。 酸っぱい胃液(いえき)の臭いと、酸化した鉄の臭いが混ざった高密度の蒸気が、気管支の粘膜(ねんまく)にべっとりと張り付く。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。

「私」はゆっくりと指を開く。

 粘着(ネチャアッ……)

 掌と手すりの間を、黄色がかった濁った液体が、数本の太い糸となって繋ぐ。 手すりの金属表面から、じっとりとした脂が滲出している。 「私」は手を引っ込め、汚れた掌をコートの裾で擦りつける。

 ズリッ、ズリッ。

 黄色い脂は繊維の奥に押し込まれる。 摩擦熱により、数日間炎天下に放置された腐った獣肉の強烈な臭いが、鼻腔の奥にべっとりと張り付く。

 息が詰まる。

 ボタンを弾く。

 カチッ。

 この手すりの材質変化のプロセスを論理的に分析すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく腐った獣肉の強烈な悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。

 この不潔な臭気が邪魔だ。

 気管が細かく痙攣(けいれん)し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。

 どうでもいい。

 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。

 天井から等間隔でぶら下がっているプラスチック製のつり革。 輪の形が歪み、薄紅色の肉の管となって長く垂れ下がっている。 表面は透明な粘液(ねんえき)で濡れ、電車の揺れに合わせてグネグネと波打つ。 足元のチェッカープレート。 一定のリズムで「ドクン……、ドクン……」と下から押し上げられるような微細な振動を繰り返している。 金属の突起が、血管の隆起にすり替わっている。 頭蓋骨の裏側で青白い火花が散る。 視界の端がザラザラと明滅する。

 金髪の男が、ゴム底の靴で、車両の壁を力任せに蹴りつけた。 彼の口から白濁した泡が吹き出している。 彼は自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 ガリッ、メキッ。

 骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。

 打撃(ドスッ)

 分厚い皮下脂肪を備えた生肉を、鈍器で全力で殴りつけたような極めて湿った衝突音。 男が足を離す。 蹴られた壁の表面が、ドス黒く変色し、直径十センチほどの青あざが浮かび上がる。 青あざの周囲の肉がピクピクと収縮(しゅうしゅく)する。 腐った獣肉の臭いが膨張(ぼうちょう)する。 ボタンを弾く。

 カチッ。

 私は、パニックを起こして無意味に壁を蹴り続ける彼を止め、冷静な判断を促すべきなのだろう。 だが、私はただ薄目を細め、彼が恐怖に顔を引き攣らせて狂乱する様を静かに見下ろしていた。 他人が自分以上に惨めに壊れ、理性を手放してくれればくれるほど都合が良いのだ。 彼らが異常であればあるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 自分だけはまだ「正常な側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができるという、極めて卑小で醜い逃避本能が、彼に手を差し伸べるエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。

「私」の右手のポケットの底。 完全に炭化(たんか)して肉と癒着(ゆちゃく)した右掌。 佐渡赤玉石(さどあかだまいし)の札が、絶対零度の鋭い冷気を放ち続けている。 冷たさが掌の血管から静脈を逆流し、太腿の肉を刺す。 痛覚(ペイン)のパルスが脳髄の表面を直接削る。 視界が白くチカチカと点滅する。

 痛い。

 だが、この冷徹な物理的激痛に没頭していれば、自分が無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。

 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、鉄錆の味が口内に広がる。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。 ボタンを弾く。

 カチッ、カチッ。

 三十七度の微熱と胃酸の悪臭がこもる車内で、ただ肉の擦れる粘着音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。


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