――第 055 幕 粘液の海への着水――
垂直落下の果て。 分厚い筋肉の塊に巨大な鉄の杭をねじ込むような、極めて重く湿っためり込み音が響いた。 凄まじい重力加速度が唐突に抜け、身体が宙に浮く。 床のカーペットの上に叩きつけられた。 サイズの合わない革靴が脱げて飛ぶ。 背中と肩の骨が軋み、肺の底に溜まっていた空気が「ガハッ」と濁った音を立てて押し出される。 左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
頬が触れているカーペット。 三十七度前後の、生温かい体温を持った液体が、アクリル繊維の奥底から際限なく滲み出してくる。 鼻腔の奥に、腐肉を煮詰めたような強烈な悪臭がべっとりと張り付く。 息を吸い込むたび、気管支がチリチリと焼かれる。 起き上がろうとして手をつくと、「ジュチャッ」という粘着質な水音を立てて、掌が数センチ沈み込んだ。
ガコン。
車体が大きく傾く。 ドロドロの泥沼に浮かべられたように、前後左右の定まらない絶え間ない横揺れ。 床下の奥底から、高粘度の液体が重く揺れる波音が響く。 巨大な鍋の中で腐肉のシチューを力任せにかき混ぜるような重低音。
この異常な落下現象と着水した液体の成分を論理的に分析すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻腔の奥へへばりつく腐肉の悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。 どうでもいい。 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。 ボタンを弾く。
カチッ。
数メートル先。 金髪の男が、床の黄色い粘液の上を転げ回っている。 彼の口から透明な唾液がとめどなく溢れ出し、酸っぱい胃液の臭いが腐肉の臭いとドロドロに混ざり合う。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ、メキッ。
骨を噛む硬質な振動が頭蓋骨を揺らす。 紺色のスーツを着た女が、窓ガラスの向こうの暗がりを凝視し、上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせている。
ガチガチガチ。
視界の端が白くチカチカと明滅する。 ボタンを弾く。
カチッ。
ヨレたカーディガンを着た助手。 彼の口から、高周波の摩擦音が漏れる。 「消化液……成分……」 彼のひび割れた眼鏡の奥で、眼球が小刻みに震え、デタラメな方向へ回転している。 口角が耳の付け根に向かってゆっくりと吊り上がっていく。 顔の筋肉が引きつり、笑顔の形に固定される。 彼は自身の指先を床の粘液に浸し、それを口へと運ぶ。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。
私は彼らを泥の中から引き上げ、正気を取り戻させるべきなのだろう。 だが、私はただ薄目を細めて、彼らが悪臭の中でのたうち回り、狂気に沈んでいく様を静かに見下ろしていた。 他人が無様に壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼らが異常であればあるほど、自分だけはまだ「正常な側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼らを助けようとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。
「私」は、ズボンの右ポケットの底に指を這わせる。 完全に炭化し、肉と癒着した佐渡赤玉石。 石は絶対零度の冷気を放ち、掌の血管から静脈を逆流して脳髄の血管を凍らせていく。 胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に酸っぱい味が広がる。 「私」は大きく顎をずらし、過剰な唾液をゴクリと飲み下した。
この冷徹な激痛に没頭していれば、自分が無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 ボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
三十七度の微熱と腐肉の悪臭がこもる車内で、ただ粘液の滴る水音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




