――第 054 幕 肉の奈落――
深夜六時三十分。 背後の分厚い鉄扉は、すでに赤黒い肉の襞に飲み込まれ、完全に同化している。 金属の冷たい感触は消え去り、ドクン、ドクンという巨大な臓器の脈動だけが、背中の布地越しに直接脊髄を揺さぶる。 古い血の鉄錆臭と、強烈な胃酸の臭気が、三十七度前後の生温かいゼリーとなって気管支の粘膜にべっとりと張り付く。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。 足元の床。 黄色い粘液と吐瀉物が混ざり合った泥の中で、金髪の男が這いつくばっている。 彼の口から酸っぱい唾液がとめどなく溢れ出し、濁った瞳孔は虚空に向けられたまま固定されている。 彼は自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ、メキッ。
骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 男の股間から生温かいアンモニアの臭いが膨張する。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。 どうでもいい。 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。 ボタンを弾く。
カチッ。
紺色のスーツを着た女の喉の奥から、空気が引き裂かれるような摩擦音が漏れ続けている。 彼女は枯れ果てた右腕を左手で抱え込み、床のチェッカープレートに額を執拗に擦り付ける。
ズリッ、ズリッ。
摩擦で破れた皮膚から熱い血が滲み、床の赤錆と粘液の泥に混ざり合う。 彼女の顎がガクガクと外れそうなほど開き、上下の歯が不規則なリズムで激しくぶつかり合う。
ガチガチガチ。
視界の端が白くチカチカと明滅する。
なぜ私は、この狂乱する二人を立たせ、論理的な生存戦略を構築しないのか。 だが、息を吸い込むたびに鼻腔の奥にへばりつくアンモニアと吐瀉物の悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。
いや、違う。 私はただ、彼らが恐怖と絶望に叩き潰され、無様に泥の中を這いつくばる姿を薄目で見下ろしていたかっただけだ。 かつて私を問い詰めた彼らが自分以上に惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた自分自身の罪悪感が、周囲の汚物の中に相対的に曖昧に塗り潰されていく。 他者の醜態を特等席で傍観することで、自分だけはまだ「正常で、力のある側の人間」なのだという錯覚にすがりつきたい。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼らに手を差し伸べるエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。
「私」の右手のポケットの底。 佐渡赤玉石は絶対零度の冷気を放ち、完全に炭化した掌の血管から静脈を逆流して、脳髄の血管を凍らせていく。 胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に酸っぱい味が広がる。 「私」は大きく顎をずらし、過剰な唾液をゴクリと飲み下した。 この冷徹な激痛に没頭していれば、自分が無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。 「私」は左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 ボタンを弾く。
カチッ。
前方。 赤黒い非常灯が明滅する暗がりの奥で、ズズズッ……という分厚い肉が擦れ合う重い水音が響いた。 新たな管の口が、ゆっくりと開いていく。 生魚の腐った内臓と、濃縮された胆汁を煮詰めたような強烈な生温かい突風が、そこから一直線に吹き抜けてきた。 眼球の表面が瞬時に乾燥し、喉の奥がカラカラに干からびる。
「私」は、サイズの合わない革靴を、粘液の泥沼から引き剥がした。
粘着。
腐肉のスープが靴底を濡らす。 背後の二人の筋肉が痙攣し、床の泥を引きずるひどく湿った摩擦音が続く。 三十七度の微熱と胆汁の悪臭がこもる車内で、ただ肉の擦れる音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




