――第 052 幕 ドア越しの拒絶――
金髪の男のゴム底の靴が、白々しい光の境界線を越える。 靴の先端が光の層に触れた瞬間、ザラザラとした砂嵐のようなノイズが走り、ゴムと化学繊維が水分を失って灰色の粉塵へと崩れ落ちた。 「私」は大きく顎をずらし、男のスカジャンの襟首を背後から力任せに掴んだ。 全体重を後ろにかけ、暗がりの車内へと引きずり倒す。 男の背中が、床の黄色い粘液と赤錆の浮いたチェッカープレートに激突した。
ズチャッ。
湿った摩擦音が狭いデッキに反響する。 彼は開いた口から透明な唾液を垂らし、崩れかけた指先を虚空へ向けて蠢かせている。 男の股間から漂う生温かいアンモニア臭が、床の胃酸の臭気と混ざり合い、三十七度前後の澱んだゼリーとなって気管支を塞ぐ。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。 その横を、紺色のスーツを着た女がすり抜けた。 彼女の顔面の皮膚が引き攣り、上下の唇が両耳に向かって裂けるように固定され、歯茎が剥き出しになっている。
「邪魔しないで……!」
「私」が腕を伸ばす。 彼女は腕の関節をデタラメな方向へ振り回し、空気を叩く。 ボタンを弾く。
カチッ。
「私」は、彼女が左手でひた隠しにしてきた、極度に水分を失った透き通る右腕の手首を、下からガシリと掴み、万力のような力で握り潰した。
圧壊。
乾燥した皮膚の下で、脆くなった骨が軋みを上げ、砕ける乾いた音。 手首の表面から、フケのような白い粉がパラパラと空中に舞い散る。 アンモニアの臭いが空間のゼリーの中で膨張する。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!」
女の喉から、空気を乱暴に引き裂くような濁った摩擦音が弾けた。 彼女の顎がガクガクと外れそうなほど開き、空いた左手で「私」の顔面を力任せに引っ掻いた。 爪が頬の肉を深く抉る。 熱い血がツーッと顎を伝って首筋へ落ち、鉄錆の臭いが鼻腔に直接塗りつけられる。 爪の裏に溜まっていた泥が、傷口の奥へすり込まれる。 胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に酸っぱい味が広がる。
この女の骨の脆さと、光の空間の法則性を論理的に分析すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻腔の奥にへばりつくアンモニアと胃酸の悪臭、そして顔面から流れる鉄錆の臭いが、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線がドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。 どうでもいい。 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
「私」は右腕から手を離さず、顔の筋肉を硬直させたまま、彼女を薄暗い車内へと引きずり戻した。 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。
「……痛いか」
「私」の掠れた摩擦音が、彼女の耳元に落ちる。 女は顔の筋肉を非対称に歪ませ、鼻水と涎を垂れ流しながら喘いでいる。
「痛いなら、生きている。……外は痛くない。無味無臭の灰になるだけだ」
私が、彼らを光の消滅から救い出し、生存の道を指し示しているわけではない。 彼らがこうして恐怖と激痛に泣き喚き、泥の中で涎を垂らして這いつくばる姿を見下ろすことで、自分だけはまだ「正常な側の人間」なのだという錯覚にすがりつきたいのだ。 他人が自分以上に惨めに壊れてくれれば、あの不潔な病室で暴かれた自分自身の罪の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼らの肉体を強引に引き留める暗いエネルギーとして這い上がってくる。
「私」は右手のポケットから、絶対零度の冷気を放つ佐渡赤玉石を抜き放ち、開いたドアの壁面にあるセンサーの突起へ叩きつけた。 炭化した掌の皮膚が「ピキッ」と裂け、血が滲む。 ボタンを弾く。
カチッ。
ガゴンッ。
硬質な衝突音。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が散る。 プシュゥゥウウッ。 重い空気が抜ける音と共に、分厚い鉄扉が左右から猛烈な勢いでスライドし始めた。
閉鎖。
巨大な肉と肉がぶつかるような重く湿った密閉音が、車内の空気を一気に圧縮した。 鼓膜が内側へ向かってペコンと凹む。 網膜を焼いていた光が遮断され、デッキは再び、チカチカと明滅する赤黒い非常灯の闇へと沈む。
女は、床の汚泥の中に倒れ込んでいる。 彼女は砕けた右腕を左手で抱え込み、鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。 眼球の毛細血管が赤く染まり、上下の瞼が一度も触れ合わず、表面が乾燥していく。
「なんで……なんでよォッ……!」
彼女の目からこぼれ落ちた冷たい水分が、床に溜まった吐瀉物と黄色い粘液の中に落ち、気泡を立てる。 彼女は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ、メキッ。
骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。
「私」は頬の血を手の甲で拭い、大きく息を吸い込んだ。 光が消えた車内には、アンモニアと胃酸、そして酸化した血の腐敗臭が、三十七度前後の生温かいゼリーとなって濃厚に立ち込めている。 肺の底まで、その重く、粘り気のある悪臭が流れ込んでくる。 左手でパジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
「私」は、床で泣き喚く女と、泥の中で涎を垂らして震える男を見下ろした。 欠けた奥歯の隙間から、生温かい血の味を飲み込み、小さく顎をずらして、水圧で塞がれた耳抜きをした。 三十七度の微熱と酸っぱい悪臭がこもる車内で、「私」は右掌から這い上がる鋭利な冷気を都合の良い言い訳にして、ただ粘液の滴る水音と、プラスチックの反復音だけを数え続けていた。




