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――第 051 幕 無臭の断崖――

 深夜六時十五分。 開け放たれた鉄扉の向こう側から、視神経を直接焼くような、異常に色温度の高い白い光が流れ込んでくる。 足元の、黄色い粘液(ねんえき)と赤錆に覆われたチェッカープレートの床。 踏みしめるたびに、胃酸の酸っぱい臭いと古い鉄錆の臭いが気管支(きかんし)にべっとりと張り付く。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。

「へへ……帰れる、帰れるぞ」

 金髪の男が、半開きの口からツーッと透明な唾液(だえき)を垂らしながら、光の中へ足を踏み出そうとしている。 彼の濁った瞳孔は極限まで開ききり、光を反射して完全に固定されている。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。 ボタンを弾く。

 カチッ。

「私」の網膜にも、多重露光のように風景が重なって張り付く。 薄汚れたアパートのドア。 中年女の顔。 その満面の笑みは、顔の筋肉が死後硬直(しごこうちょく)を起こしたように固定され、一度も瞬きをしない。 男の足元に落ちるはずの影が存在しない。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。

 なんだろう、あれは。 どうでもいい。

 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。 視界の端が白くチカチカと明滅を繰り返す。

 数メートル横で、紺色のスーツの女が、自らの右腕を見つめ、眼球の筋肉を完全に硬直させていた。

「ああ……治った。治ってる……」

 彼女の毛細血管が破裂した眼球には、老婆のようにひび割れ、枯れ果てたはずの右腕が、滑らかな肌を取り戻したように映っている。 彼女の視線の先には、整然と並んだスチールデスク。 紙コップから、白い湯気が立ち上っている。 湯気は動いている。 だが、空気は一ミリも動いていない。 ボタンを弾く。

 カチッ。

「私」は、目を細めた。 眼球の表面が極度に乾燥している。 瞬きをするたびに、瞼の裏が角膜をヤスリのように擦る。

 ジョリッ。

 硬質な音が頭蓋骨の裏側に直接響く。 右手のポケットの底。 完全に炭化して肉と癒着している佐渡赤玉石は、熱を完全に失い、絶対零度の冷気を放ち続けている。 掌の血管から静脈を逆流する冷気が、胃壁(いへき)を雑巾を絞るように激しく収縮(しゅうしゅく)させる。

 空気を、吸い込む。

 においがない。

 女の視界にあるコーヒーから湯気が出ているのに、豆が焦げる香ばしい匂いが一切しない。 男のアパートの前にゴミ袋があるのに、生ゴミの発酵臭(はっこうしゅう)が全くしない。 鼻腔の奥がツンと痛み、気管支(きかんし)がヒクヒクと細かく痙攣(けいれん)する。 完全な無味無臭の真空が気管支に流れ込んでくる。

 チュン、チュン。

 小鳥のさえずりの波形が、正確に四・五秒周期で、寸分違わぬ高低差で鼓膜を物理的に削り続ける。 風が吹いて女の髪が揺れているように見えるのに、デスクの上の書類は一枚たりとも揺れていない。

 この無味無臭の真空と、空間の光の屈折の矛盾を論理的に分析し、彼らに罠だと警告すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく胃酸の酸っぱい悪臭と古い血の鉄錆臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。

 この不潔な臭気が邪魔だ。

 気管が細かく痙攣(けいれん)し、まともな思考の結線がドロドロに溶け落ちていく。 視界全体が砂嵐のようにザラザラと明滅する。 左手でボタンを弾く。

 カチッ、カチッ。

 圧倒的な光量が「私」の網膜を焼き、視界の端から黒い盲点がじわじわと広がっていく。

 私は、光の向こうへ歩み出そうとする彼らの腕を掴み、その破滅から引き戻すべきなのだろう。 だが、私はただ右手をポケットに沈めたまま、彼らが幻覚に呑まれ、無様に崩壊していく姿を薄目で見つめていた。 他人が得体の知れない光に縋り、惨めに壊れてくれればくれるほど、自分だけはまだ「正常な側の人間」なのだという錯覚にすがりつきたいのだ。 彼らが異常であればあるほど、あの不潔な病室で暴かれた自分自身の罪の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼らに手を差し伸べるエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。

「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液(だえき)をゴクリと飲み下した。 アンモニアと胃酸に塗れた、三十七度の生温かい澱んだ空気だけが、肺の底に重い泥となって沈殿する。 「私」のサイズの合わない革靴は、床の不潔な粘液(ねんえき)に縫い付けられたように、一歩も動かない。

 三十七度の微熱と酸っぱい悪臭がこもる車内で、「私」は右掌から這い上がる鋭利な冷気を都合の良い言い訳にして、ただ無臭の冷気と、プラスチックの反復音だけを数え続けていた。


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