――第 050 幕 偽りの夜明け――
深夜六時十分。 床の錆びたチェッカープレートの上で、助手の血まみれの右手が、ピクッ、ピクッという微細な収縮を続けている。 肉と肉が擦れ合う湿った音が、鼓膜にべっとりと張り付く。
空間全体を圧殺していた致死的な重低音と、肉の粘膜が擦れ合うノイズが、唐突に途絶えた。
鼓膜が内側から外へと、力任せに引っ張られる。 胃酸の酸っぱい臭いと古い血の鉄錆臭が、三十七度前後の生温かいゼリーとなって肺の底に沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。 床下から這い上がってきていた震動が消え、巨大な鉄の箱が、ゆっくりと停止していく。
直後。歪んだ乗降用のドアが動いた。
「ドムッ」
分厚い扉をこじ開けたような、鈍く重い摩擦音。 左右に開いたドアの隙間から、眼球の裏側を直接焼くような、暴力的な白い光が差し込んできた。 「……着いたのか?」 数メートル先で、警官が顎の筋肉を緩め、透明な唾液をこぼしながら顔を上げた。 チンピラも、乱抗した歯並びを剥き出しにし、口角が不規則な方向に引き攣ったまま、ドアへ向かってゴム底の靴を滑らせていた。 ボタンを弾く。
カチッ。
「私」のサイズの合わない革靴は、床のチェッカープレートに縫い付けられたように動かない。 右手のポケットの底。 完全に炭化して肉と癒着した佐渡赤玉石が、絶対零度の冷気を放ち始めている。 掌の血管から静脈を逆流する冷気が、胃壁を雑巾を絞るように激しく収縮させる。 「私」は、鼻の奥の粘膜をヒクつかせる。 女の視線の先で、紙コップのコーヒーから湯気が立ち上っている。 男のアパートのドアの前に、ゴミ袋が見える。
だが、匂いがない。
豆が焦げた香ばしい匂いも、生ゴミの発酵臭も全くしない。 鼻腔の奥がツンと痛み、気管支がヒクヒクと細かく痙攣する。
眼球を刺す光の粒子が、網膜を直接ヤスリで削るように叩きつけられる。 極細密な絵を、顔の数センチ前にべったりと貼り付けられたような、強烈な圧迫感。 風が吹いて女の髪が揺れているように見えるのに、デスクの上の書類は一枚たりとも揺れていない。 視界の端が白くチカチカと明滅を繰り返す。 この無味無臭の真空と、空間の光の屈折の矛盾を論理的に分析し、罠だと警告すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく胃酸の酸っぱい悪臭と古い血の鉄錆臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線がドロドロに溶け落ちていく。 扉の向こうの光景は、まるでかつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。 どうでもいい。 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
「私」は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ、メキッ。
骨を噛む硬質な振動が頭蓋骨を揺らす。 女が、開いたドアの向こう側へ、震える左手の指先を伸ばした。 光の境界線に、彼女の爪先が触れる。 指先が、その白い光に触れた瞬間。 彼女の指の輪郭が、テレビの砂嵐のようにザラザラと明滅し、光の粒子の中へドロリと溶け落ちる。
「私」は、彼女の腕を掴み、その破滅から引き戻すべきなのだろう。 だが、私はただ右手をポケットに沈めたまま、彼女の指先が砂嵐となって消滅していく様を薄目で見つめていた。 他人が得体の知れない光に呑まれ、無様に崩壊していく姿を傍観することで、自分だけはまだ「正常な側の人間」なのだという錯覚にすがりつきたいのだ。 彼女が惨めに壊れれば壊れるほど、あの不潔な病室で暴かれた自分自身の罪の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼女に手を差し伸べるエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。
「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液をゴクリと飲み下した。 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 ボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
酸っぱい悪臭と三十七度の微熱がこもる車内で、「私」は右掌から這い上がる鋭利な痛覚を都合の良い言い訳にして、ただ粘液の滴る水音と、プラスチックの反復音だけを数え続けていた。




