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――第 049 幕 観測者の溺死――

 深夜六時五分。 空間を満たす朱色の光が、運転室だったはずの場所を隙間なく埋め尽くす巨大な赤い水膨(みずぶく)れの脈動に合わせて、ザラザラと明滅を繰り返している。 空気中には、床のひび割れたチェッカープレートが発する酸化した鉄錆の臭いと、足元で転げ回る二人が吐き出した未消化の胃液の酸っぱい悪臭が、三十七度前後の生温かいゼリーとなって滞留していた。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。 どうでもいい。 この不快な極彩色の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。 息を吸い込むたび、気管支の粘膜(ねんまく)にその悪臭がべっとりと張り付き、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。

「……ッ、オェエエッ……」

 背後で金髪の男が、黄色い胃液を撒き散らしながら、床の赤錆を指の皮が剥けるまで掻きむしっている。 紺色のパンツスーツを着た女は、顔面を吐瀉物(としゃぶつ)に沈めたまま、胃壁(いへき)を雑巾を絞るように収縮(しゅうしゅく)させ、ヒューッという濁った排気音を漏らしている。 ボタンを弾く。

 カチッ。

 巨大な肉袋が放つ重低音が、空間の圧力を極限まで高め、直接眼球を圧迫する。 視界の端が白くチカチカと点滅する。 「私」は、完全に炭化(たんか)して石札と癒着(ゆちゃく)した右手から立ち上る、肉の焦げる香ばしい悪臭を肺に吸い込みながら、ただ膝を曲げて立っている。 乱暴にホッチキスで縫い合わされた左腕の傷口が、三十七度の微熱を持ち、ミシミシと引き攣る。 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。

 ヨレたカーディガンを着た痩せ型の男。 彼は、脈打つ巨大な赤い粘膜(ねんまく)に全身を密着させ、顔を押し当てていた。 彼の顔面から冷たい体液(リンパ)が滲み出し、ひび割れた銀縁眼鏡の奥で、眼球がデタラメな方向へ回転している。 鉄錆の臭いが酸の臭気とドロドロに混ざり合う。 ボタンを弾く。

 カチッ。

「聞こえる……配列が、網膜の、プリン塩基が……! これは、純粋な……!」

 口の端から、酸っぱい唾液(だえき)がとめどなく溢れ出し、白衣の襟を汚していく。 彼は右手に握ったボイスレコーダーを、水膨れの表面に力任せに押し付けている。

 なぜ、彼がそんな無意味な行動に出たのか、論理的に分析すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく酸っぱい胃液の悪臭と古い鉄錆の臭いが、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。

 この不潔な臭気が邪魔だ。

 気管が細かく痙攣(けいれん)し、まともな思考の結線がドロドロに溶け落ちていく。

 直後。 脳に流し込まれた振動により、彼の肉体が大きく跳ねた。

 痙攣(けいれん)

 助手の体が、錆びた床の鉄板の上へ崩れ落ちる。

 ドサッ、

 という重い落下音。 彼の口から黄色い粘液(ねんえき)が吹き出し、床の泥や吐瀉物と混ざり合っていく。 焦点の合わない赤い眼球は、天井の虚空を見つめたまま完全に静止している。 彼の上顎と下顎の歯が不規則なリズムで激しくぶつかり合う。

 ガチガチガチ。

 彼の右腕だけが、床の上で収縮(しゅうしゅく)弛緩(しかん)を繰り返していた。

 反復(ピクッ、ピクッ)

 血に染まった彼の右手の人差し指が、空中に向かって、一定のリズムで伸縮し続けている。 爪の間には、赤い肉の繊維が挟まっている。 その指先が、何もない空間を押し込む摩擦音を再現し続ける。

 私は彼を助け起こすべきなのだろう。 だが、私はただ肉の焦げる悪臭を放つ右手を胸に抱えながら、その指の反復運動を薄目で見下ろしていた。 彼が狂気に飲まれ、意味のない動きを繰り返すだけの肉塊に成り下がってくれることへの、歪んだ安堵感。 他者が惨めに壊れれば壊れるほど、あの不潔な病室で暴かれた自分自身の罪の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 自分だけはまだ「正常な側の人間」なのだという錯覚にすがりつきたいという、極めて卑小で利己的な自己正当化の欲求が、彼に手を差し伸べるエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。

「私」は大きく顎をずらし、過剰な唾液(だえき)をゴクリと飲み下す。 左手でパジャマのボタンを弾く。

 カチッ、カチッ。

 朱色の光が明滅する三十七度の生温かい空間に、ただ胃酸の臭いと、肉の擦れる音、そしてプラスチックの反復音だけが充満し続けていた。


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