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――第 048 幕 混線する遺言――

 深夜六時。 歪んだ鉄扉の向こう側。 運転室だったはずの空間を隙間なく埋め尽くす、巨大な赤い水膨(みずぶく)れが、内側からの圧力で絶え間なく膨張(ぼうちょう)収縮(しゅうしゅく)を繰り返している。 朱色の光が、狭い室内に明滅する。 三十七度前後の生温かいゼリー状の大気が、鼻の粘膜(ねんまく)にべっとりと張り付く。 半透明の分厚い粘膜の表面が、水滴を弾くように微細に震え始めた。

 空気を伝わる音波ではない。 剥がれかけた床のチェッカープレートを通じて、脛の骨から直接頭蓋骨の裏側へと這い上がってくる、極めて低く、重い振動(ノイズ)。 頭蓋骨の奥底で、錆びついたダイヤルを無理やりねじ回すような摩擦音が響く。 息を吸い込むたび、古い鉄錆と胃酸の入り混じった臭気が、肺の底に細かい砂利となって沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。

「……ッ、うるせえ! 俺じゃねえ、俺のじゃねえよッ!」

 背後で、空気が破裂するような排気音が弾けた。 金髪の男が、床の赤錆と黄色い体液(リンパ)の中に転げ回っている。 彼は両手の人差し指を、自らの耳の穴の奥深くまで突き入れ、指の骨が軋むほどの力で塞ぐ。

「金なら返す……泣くなよ、母ちゃん……ッ!」

 彼の口から、酸っぱい唾液(だえき)がカニの泡のように吹き出す。 借金取りの怒号の波長と、母親の湿った泣き声の波形が、頭蓋骨の裏側で乱反射し、眼球の裏側で微小な火花を散らす。 男は自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 ガリッ、メキッ。

 爪が皮膚を削る振動が骨を伝う。 ボタンを弾く。

 カチッ。

 数メートル横。 紺色のパンツスーツを着た女が、床の鉄板の上に丸く縮こまっていた。

「痛い、痛いよね……ごめんなさい、私が見つけられなくて……」

 彼女は、枯れ果てた右腕を左手で抱え込み、錆びた床のチェッカープレートに額を執拗に擦り付けている。

 摩擦(ガリッ、ガリリッ)

 擦れすぎた額の皮膚が破れ、赤い肉が露出する。 そこから滲み出した血が、錆びた鉄板の突起をドス黒く汚していく。 彼女の口の端から、黄色い体液(リンパ)がドロリと垂れる。 彼女の鼻腔と鼓膜には、血液の泡立つ音と、強烈な腐敗臭(ふはいしゅう)がへばりついている。 彼女の顎がガクガクと不規則に揺れ、上下の歯が激しくぶつかり合う。

 ガチガチガチ。

 他者の網膜に何が映っているのか、「私」には見えない。 ただ、彼らの全身から噴き出す酸っぱい脂汗(あぶらあせ)と、胃壁(いへき)が雑巾を絞るように収縮(しゅうしゅく)し、空気を引き裂くような排気音が、三十七度の空間を揺らしている。 ヨレたカーディガンを着た痩せ型の男が、脈打つ赤い粘膜(ねんまく)へ這い寄り、全身を密着させていた。

「素晴らしい……音声化だ!」

 彼は、酸の飛沫でひび割れた銀縁眼鏡の奥で、眼球をデタラメな方向へ回転させながら、手に握りしめた銀色のボイスレコーダーを、赤い粘膜(ねんまく)へ力任せに押し当てている。 急激な気圧の変化。 助手の鼻の穴から、どす黒い血がツーッと一筋、流れ落ちた。 血は彼の乾燥した唇を汚すが、彼はそれをザラついた舌先で舐めとりながら、口角を耳の付け根に向かってゆっくりと吊り上げていく。 顔の筋肉が引き攣り、笑顔の形に固定される。 彼は左手の親指の爪で、自らの人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲む。

 カリッ、カリッ。

 ボタンを弾く。

 カチッ。

 この空間で発生している幻聴の物理的法則を論理的に分析すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく古い鉄錆と胃酸の入り混じった臭気が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。

 この不潔な臭気が邪魔だ。

 気管が細かく痙攣(けいれん)し、まともな思考の結線がドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。 どうでもいい。 この不快な極彩色の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。

「私」は、大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液(だえき)をゴクリと飲み下す。

「私」の頭蓋骨の裏側でも、古びた蛍光灯が「ジジッ」と鳴る音と、ちゃぶ台がひっくり返る「ガシャン」という乾いた破砕音が、一定の周期で反響を始めている。 鼻の奥に、古い畳のカビの臭いと、安い焼酎の揮発臭(きはつしゅう)が、空間の鉄錆の臭いとドロドロに混ざり合ってまとわりついてくる。 視界の端が白くチカチカと明滅する。 三半規管(さんはんきかん)内の体液(リンパ)が波打ち、足元の座標がドロドロに溶け落ちる。

 私は彼らを正気に戻そうとはしない。 他人が狂気に沈み、無様に幻覚に怯える姿を見下ろすことで、自分だけはまだ「正常な側の人間」なのだという錯覚にすがりつきたいのだ。 彼らが惨めに壊れれば壊れるほど、あの不潔なちゃぶ台の記憶で暴かれる私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰される。 そんな極めて卑小で利己的な自己正当化の欲求が、彼らを助けようとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。

「私」は、右手のポケットの底で、完全に炭化(たんか)した掌の肉と癒着(ゆちゃく)している佐渡赤玉石(さどあかだまいし)を、爪が食い込むほど強く握りしめた。

 熱傷(チリッ)

 乱暴にホッチキスで縫合された左腕の傷口が引き攣り、ドス黒い血が滲む。 右手の肉が焦げる香ばしい悪臭が、空間のゼリーの中に分厚く広がる。 神経の束を直接焼かれる痛覚のパルスが、脳髄の表面を削り取る。

「あぐッ……」

 肉の焦げる臭いと激痛(ペイン)。 私は、この異常な空間を打破するために自らの肉体を焼いているわけではない。 焼け焦げる激痛(ペイン)に没頭していれば、頭蓋骨の裏で鳴り響く家族の破砕音から目を背け、自分が犠牲者であるかのように振る舞えるからだ。 ただの自己欺瞞の防衛本能。 その生々しい物理的負荷だけが、網膜の裏側で崩壊していく空間のピントを、かろうじて肉体の内側へと縫い留めている。

 左手でパジャマのボタンを弾く。

 カチッ、カチッ。

 三十七度の生温かい空気の中で、ただ肉が焦げる臭いと、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。


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