――第 047 幕 脈打つ運転席――
降り注いでいた黄色い飛沫を抜け、先頭車両の最奥へと辿り着く。 右手の掌は完全に炭化し、皮膚と石札がドロリと癒着している。 真っ黒に縮れ上がった肉の奥に石が埋め込まれ、心臓の拍動に合わせてチリ、チリと微細な熱を放つ。 ホッチキスで乱暴に縫い合わされた左腕の傷口から、腐った果実のような甘い臭いが絶え間なく立ち上り、サウナのような熱気と共に鼻の粘膜へへばりつく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
前方を塞ぐ運転室の分厚い鉄扉。 鉄板は内側からの圧力によって外側へと大きく湾曲し、表面の塗装がひび割れて剥がれ落ちている。 歪んだ蝶番の隙間から、ドクン、ドクンという重低音と共に、生臭い熱風と朱色の光が漏れ出していた。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。
「開けろ。運転士がいれば……」
警官が、枯れ果てた右腕を抱えながら、左手で扉の枠にすがりつく。 乾燥した唇の隙間から、ヒューッという細い呼気が漏れる。 その後ろで、酸で顔の右半分が爛れた助手が、「中枢神経系だ……ここに全ての……」と、泡立った唾液を飛ばしながら早口で音素を吐き出す。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ、メキッ。
骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 ボタンを弾く。
カチッ。
チンピラの上下の歯が不規則なリズムで激しくぶつかり合う。
ガチガチガチ。
彼は歪んだ扉の隙間に鉄パイプの先端をねじ込む。
ギギギギッ、
という金属が激しく擦れ合う音。 彼が体重をかけて抉じ開けた扉が、重々しい音を立てて内側へ吹き飛んだ。
熱風。
運転室の中に、計器類やガラス窓は存在しない。 部屋の空間を隙間なく埋め尽くしていたのは、巨大な赤い水膨れだ。 内側から朱色のライトで照らされているような、半透明の分厚い粘膜。 その表面には、六本の未発達な足と、退化した四つの翼のようなピンク色の突起がへばりつき、壁へ太い血管の根を深く張っている。
ドクン。
全体が脈打つたびに、表面から透明な粘液が滲み出し、床の鉄板へボトボトと滴り落ちる。 半透明の膜の奥には、ドロドロの液体が巡り、そこを「誰かの眼鏡」や「片方だけの靴」がゆっくりと流れていくのが透けて見えた。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。
なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な極彩色の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。 かつて運転席だった場所の頂点には、乗務員の帽子だけが、ポツンと癒着している。 アンモニアとタンパク質が溶ける強烈な悪臭が、朱色の光の中に漂う。
なぜ、この水膨れが人間の残骸を飲み込んでいるのか。 その生態的なメカニズムを論理的に分析すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻腔の奥にへばりつくアンモニアと腐った果実の甘い悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線がドロドロに溶け落ちていく。
「嘘よ……止めて! 電車を止めて!」
警官が、ひび割れた声で叫び、目の前の赤い水膨れに左手を突き立てる。
ドン、
と叩こうとした彼女の手は、表面で弾かれることなく、ズブズブと粘膜の奥へ沈み込んだ。
「ヒッ……!」
彼女の肩が不規則に跳ねる。 彼女の左手の指先は白く膨潤け、指紋の溝がドロドロに溶けかかっている。 彼女は左手の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 アンモニアの臭いが鼻腔を塞ぐ。
「私」が、黒焦げの右手に埋まった石を突きつける。 巨大な水膨れがビクンと大きく収縮した。 密閉された空間の気圧が急激に変動し、鼓膜がペコッと内側にへこむ。 視界の端が白くチカチカと明滅する。
私が、この石の熱で彼女を助けようとしたわけではない。 彼女がパニックに陥り、自らの指を溶かして狂乱する姿を間近で観察することで、自分だけはまだ「正常な側の人間」なのだという錯覚にすがりつきたいだけなのだ。 他人が自分以上に惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた自分自身の罪悪感が相対的に曖昧になる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、この石を突きつけるという行為の原動力となっているに過ぎない。
水膨れの表面が、スピーカーの振動板のように微細に震え始めた。 内部のガスが排気される風切り音が鳴る。
シュウゥゥ……オォォ……カァ、ェ、リィ……。
頭蓋骨の裏側で微小な火花が弾ける。 その音は、ひどく湿った摩擦音として鼓膜を直接叩いた。
オ帰リ。オ帰リ。
「私」は大きく顎をずらし、過剰な唾液をゴクリと飲み下した。 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 ボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
サウナのような熱気と強烈な悪臭がこもる空間に、ただ粘液の滴る水音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




