――第 046 幕 消化液の驟雨――
サイズの合わない革靴の底が、水分を過剰に含んだ床の肉を「ジュルッ」と踏みしめる。 周囲を覆うピンク色の粘膜がドクドクと脈打ち、三十七度前後の熱を帯びた湿気がまとわりついてくる。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で微小な火花が弾ける。 息を吸い込むたび、胃酸の酸っぱい臭いと古い血の鉄錆臭が気管支にべっとりと張り付き、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
頭上から、黄色く白濁した液体が「ポタ、ポタ」と降り注ぎ始めた。 それが警官の紺色のスーツの肩に落ちる。 ジュワッと微細な泡が立ち、繊維が溶ける。 彼女は左手を伸ばしてそれを払おうとする。 分厚いゼリー状の空気の層が、彼女の指先を不規則な軌道へと弾き飛ばす。 彼女の顔面からドロリとした冷たい水分が滲み出し、顎を伝って滴り落ちた。 彼女は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ、メキッ。
骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。
なぜ、この消化液の飛沫の法則性を論理的に分析しないのか。 だが、息を吸い込むたびに鼻腔の奥にへばりつく強烈な胃酸とアンモニアの悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 降り注ぐ黄色い飛沫は、まるでかつて泥の底に沈めた見知らぬ臓器の……いや、違う。 なんだろう、あれは。 どうでもいい。 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。 ボタンを弾く。
カチッ。
背後で、ヨレたカーディガンを着た男の気管支が細かく引き攣り、空気が擦れる乾いた排気音が鳴る。 上下の歯が不規則なリズムで激しくぶつかり合っている。
ガチガチガチ。
彼が口を開くたび、ひび割れた唇の間から酸っぱい唾液の泡が吹き出し、床の肉へ落ちていく。 ボタンを弾く。
カチッ。
チンピラは、何も言わず、ただ手の中のバタフライナイフの柄を強く握りしめている。 指の関節からミシッという骨の鳴る音が響き、手首の青黒い静脈がドクドクと不規則に波打つ。 彼は自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。
私は彼らに声をかけ、この消化液の驟雨から逃れるための具体的な指示を出すべきなのだろう。 だが、私はただ薄目を細め、彼らが酸に焼かれ、パニックを起こして無様に崩れていく様を静かに観察していた。 他人が恐怖に支配され、惨めに壊れてくれればくれるほど、自分だけはまだ「正常な側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 彼らが異常であればあるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼らを助けようとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。
「私」の右手のポケットの奥。 完全に癒着した佐渡赤玉石が、掌の肉をチリチリと焼き、黄色い脂が微細な気泡を立てて沸騰している。 タンパク質の焦げる香ばしい臭いが、アンモニアの悪臭と混ざり合う。 痛覚のパルスが脳髄の表面を直接削る。
痛い。
だが、この物理的な激痛に耐えている限り、私は加害者ではなく無力な被害者として振る舞うことができる。 ただの醜い自己欺瞞だ。
「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液をゴクリと飲み下した。 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
パジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
酸の臭気と肉の焦げる臭いがこもる空間に、ただ粘液の滴る水音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




