――第 045 幕 生存ユニット始動――
水を含んだ粘膜の床に、サイズの合わない革靴が沈み込む。
「足元、崩れてる」
紺色のスーツを着た警官の乾燥した唇の隙間から、ひどく掠れた摩擦音が落ちた。 声の波形は、鼓膜の表面をただザラザラと撫でるだけで終わる。
息を吸い込むたび、酸っぱい胃酸の臭いと古い血の鉄錆臭が気管支にべっとりと張り付き、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
この空間の触手の配置や生態系の法則を論理的に分析すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻腔の奥にへばりつくアンモニアと胃酸の悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。
なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
ミリ……、ギチチチッ。
左右の肉壁が激しく痙攣し、内側に向かって急速に膨張を始めた。
「収縮、七秒……!」
後方から、ヨレたカーディガンを着た男の、気管の引き裂かれるような摩擦音が飛ぶ。 「私」は、泥沼のような床へ膝をつき、身体を丸める。
背後の三人も、一斉に黄色い粘液の中へ靴底を沈め、しゃがみ込む。
ズブリ。
直後。
頭上スレスレを、膨張した左右の分厚い肉壁が「ブチュウゥッ」とひどく湿った音を立てて擦れ合う。
密閉。
互いの顔が、数センチの距離まで圧縮される。 酸っぱい未消化の胃液の臭い。
他人の毛穴から滲み出す酸化した皮脂の獣臭。 古い血の鉄錆臭と、失禁のアンモニア臭。
四人の荒い呼吸音が、狭い隙間でドロドロに混ざり合う。
ヒュー、ヒュー。
吸気と呼気のリズムが完全に重なる。 息を吸い込むたび、他人の吐き出した生温かい排泄ガスが気管支に直接ねじ込まれる。
視界の端が白くチカチカと明滅する。 「私」は左手でボタンを弾く。
カチッ。カチッ。
一秒、二秒……。
誰も言葉を発しない。 ただ、他人の肩や膝の骨が自分の肋骨に食い込み、ゴリゴリと鈍い振動を伝えてくる。
右手のポケットの奥。 佐渡赤玉石が放つ熱が、掌の皮膚をチリチリと焼き焦がす。
タンパク質の焦げる香ばしい臭いが、アンモニア臭と混ざり合う。 鋭利な痛覚のパルスが脳髄の表面を直接削る。
左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲む。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。
この苦痛と圧迫に耐え、彼らと身を寄せ合っているのは、私が仲間を導くリーダーとして振る舞っているからではない。
かつて私を問い詰めた者たちと、こうして悪臭と体液にまみれて物理的に密着していることで、あの不潔な病室で暴かれた自分自身の罪悪感が、周囲の汚物の中に相対的に溶けて有耶無耶になっていくような気がするからだ。
彼らと同じ泥水に浸かり、惨めな姿を共有していれば、私だけが裁かれることはないという、極めて卑小で醜い自己正当化の欲求。 それが、この息の詰まる圧迫感の中で、暗い安堵となって這い上がってくる。
七秒後。
「ドムッ」という重い排気音が鳴る。
壁の収縮が解ける。
四人は無言のまま立ち上がった。 金髪の男が靴底の粘液を床に擦りつける。
ズリッ、ズリッ。
警官がライターのヤスリを回し続ける。
カチャ、カチャ。
痩せ型の男がひび割れた眼鏡を押し上げ、自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ。
「行くぞ」
「私」の掠れた摩擦音が、三十七度の微熱を持った空気に落ちる。 彼らは再び、前へ向かってサイズの合わない靴を踏み出す。
ボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
酸とアンモニアの悪臭がこもる空間に、ただ粘液の滴る水音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




