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――第 044 幕 汚れた同盟――

「私」の背後で、車掌室の分厚い鉄扉が「ミリ……ミシッ」と歪んでいる。 蝶番の隙間からは、黄色く白濁した粘液(ねんえき)が微細な気泡を立てて「ジュク、ジュク」と滲み出してきた。 鉄板の向こう側で、巨大な臓器の(ひだ)が擦れ合う重低音が、絶え間なくコンクリートの床を直接揺らす。 「私」は、指の間に挟まった見知らぬ誰かの縮れた体毛を擦り落とす。 指先に残る三十七度前後の生温かさが、胃壁(いへき)を力任せに雑巾のように絞り上げ、冷たい泥水が食道を逆流する。 大きく顎をずらし、過剰な唾液(だえき)と共にそれを無理やり飲み下す。 左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。 狭い車掌室には、四人分の荒い呼気(こき)が充満していた。 換気扇の死んだ密室。 そこを満たしているのは、全身の毛穴から絶え間なく滲み出る酸っぱい体臭と、酸化した血の鉄錆臭、そして胃の底からせり上がってくる未消化の口臭(こうしゅう)だった。 息を吸い込むたび、気管支の粘膜(ねんまく)にその生々しい排泄物の臭気がべっとりと張り付き、肺の奥に細かい砂利が沈殿していく。

 この状況下での生存確率を計算し、彼らに適切な役割を割り振る論理的な思考を組み立てるべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻腔の奥にへばりつく酸っぱい体臭と未消化の口臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。

 この不潔な悪臭が邪魔だ。

 気管が細かく痙攣(けいれん)し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。 どうでもいい。 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。 ボタンを弾く。

 カチッ。

「……で、どうすんだよ」

 金髪の男が、バタフライナイフの金属柄を弄りながら、ひび割れた唇を舐めた。 彼の眼球は絶え間なく左右に泳ぎ、派手なスカジャンからは古いタバコのヤニと、他人の体液が混ざったような生臭い匂いが漂っている。

「お前は、そのナイフで壁から伸びる管や触手を切れ」

「私」の極度に乾燥した声が、冷たい鉄の壁に反響する。 「私の熱が届かない物理的な障害がある。お前の担当だ」

「へっ、俺が一番危険な役じゃねえか」

 男は舌打ちをし、鼻を鳴らした。 彼の口角が、耳の付け根に向かって微かに吊り上がる。 彼はナイフをカチャリと回す。

 カチャ、カチャ。

 金属の摩擦音が狭い部屋を揺らす。 ボタンを弾く。

 カチッ。

 部屋の隅で、助手はひび割れた銀縁眼鏡を押し上げている。 彼はブツブツと、レコーダーに向かって音声データを出力し続けている。 割れたレンズの奥で、彼の瞳孔は不規則に拡大と収縮(しゅうしゅく)を繰り返していた。 視界の端が白くチカチカと明滅する。

「君は……見ていろ」

「私」は、喉から掠れた摩擦音を押し出す。 「周囲の異変を記録し、叫べ。君の記録だけが頼りだ」

「私」の音声波形が鼓膜を打つ。 助手は首の筋肉を不規則に収縮(しゅうしゅく)させ、「ああ、任せたまえ……僕の網膜は正常だ」と、レンズの奥で血走った目をひん剥く。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。 ボタンを弾く。

 カチッ。

 床の鉄板に座り込む警官を見下ろす。 彼女は、汚れた布を巻いた右腕を左手で抱え込んでいる。 上下の歯が不規則なリズムで激しくぶつかり合っている。

 ガチガチガチ。

 カサ、カサカサ。

 極度に乾燥した皮膚が擦れ合う音が、狭い部屋に響く。

「貴方は、そのライターで足元を照らせ」 「……」 「光源は、貴方だけだ」

 彼女は顔を上げ、毛細血管が破裂しそうなほど血走った眼球で「私」を睨んだ。 眼球の表面が乾燥し、眼窩の裏側で微細な火花が弾ける。

「私が先頭で道を焼く。……私の熱からはみ出したら、見捨てる」

 四人は互いに視線を逸らした。 重い沈黙の中、それぞれが乾いた音を立てて唾液(だえき)を飲み込み、小さく顎を引く。

 私が彼らに役割を与え、この絶望的な状況を打破するリーダーとして振る舞っているわけではない。 かつて私を問い詰め、追い立てた彼らが、今や私の庇護なしでは生きられず、私の命令にすがりつく無様な姿を特等席で見下ろすことで、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感から目を背けたかったのだ。 他者を従属させ、惨めな命を握り潰せる位置にいれば、自分だけはまだ「正常で、力のある側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化と支配欲が、彼らを率いるための暗いエネルギーとして這い上がってくる。

「私」は右のポケットの底で、沈黙を保つ佐渡赤玉石(さどあかだまいし)の冷たさを握り直した。 完全に炭化(たんか)して癒着(ゆちゃく)した右掌の皮膚が「ピリッ」と引きつり、血が滲む。 鉄錆の臭いが口臭(こうしゅう)に混ざる。 左手でパジャマのボタンを弾く。

 カチッ、カチッ。

 その時だった。

 カチリ。

 警官の震える親指が、オイルライターの冷たいヤスリを弾いた。 オレンジ色の小さな炎が、澱んだ空気を焦がして立ち上がる。

 オイルの甘い揮発臭と、四人分の酸っぱい悪臭が入り混じる三十七度の空間。 ただ金属の摩擦音と、プラスチックの反復音だけが、薄暗い鉄の箱の中に充満し続けていた。


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