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――第 043 幕 羊皮紙の地理学――

 車掌室の澱んだ空気が、四人の荒い呼吸によってさらに粘度を増している。 換気扇の死んだ密室。 鉄扉の向こう側からは、「ズズッ、ジュボッ」という分厚い肉が擦れ合う重い水音が絶え間なく鼓膜を叩く。 部屋の隅に置かれた、錆びついたスチールデスク。 少しだけ開いた引き出しの隙間から、黒く濁った粘液(ねんえき)が、一定のリズムで床の鉄板に滴り落ちている。

 ポタリ。ポタリ。

 極めて粘着質な水音が、空間の圧力を微細に揺らす。 強烈な酸っぱい悪臭と古い脂の臭いが、狭い空間に充満する。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。

「私」は、デスクの天板に張り付いている四角い「図面」のようなものに目を向けた。 かつて運行図表だったものかもしれない。 表面は黄色く変色し、古い獣脂のようなテカテカとした光を放っていた。 「私」は指先を伸ばし、その端を摘んで持ち上げる。 横から、助手が上下の歯をガチガチとぶつかり合わせながら、その皮膚を覗き込んできた。 彼の酸っぱい呼気が「私」の頬にねっとりと絡みつく。 「僕たちは今、噴門……入り口に……この先は……強酸の……」 助手の乾いた摩擦音が、狭い鉄の部屋に反響する。 「私」は、その皮膚の端が丸まっていることに気づき、裏側へと裏返した。

 接触(ゾワリ)

 胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮(しゅうしゅく)し、舌の裏側に酸っぱい味が広がる。 皮膚の裏側。 机に癒着(ゆちゃく)していた面。 そこには、縮れた体毛が、毛根ごとびっしりと残っていた。 開いた毛穴の奥には、黄色く酸化した皮脂(あぶら)がこびりつき、強烈な獣臭を放っている。 三十七度前後の生温かさが指先から直接伝わってくる。 ボタンを弾く。

 カチッ。

 この構造物の地図を解読し、現在地を論理的に把握すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく酸化した皮脂の獣臭と酸っぱい悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。

 この不潔な臭気が邪魔だ。

 気管が細かく痙攣(けいれん)し、まともな思考の結線がドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。

 どうでもいい。

 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。

 その毛と脂の隙間を縫うように、微細なインクの染みが刻み込まれていた。 「私」は大きく顎をずらし、過剰な唾液(だえき)と共に胃液(いえき)を無理やり飲み込み、その物体を自分の顔の数センチの距離まで近づけた。 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。 毛穴の脂の臭いが、鼻腔の奥に直接塗りつけられる。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で微小な火花が弾ける。

『助けて』 『熱い』 『溶ける』

 黒いインクの染みが、網膜をチリチリと焼く。 皮膚は生きたままの三十七度の微熱を保っていた。 指先の毛細血管がパチパチと破裂し、生温かい血の巡りが骨を伝って逆流する。

 私がこのおぞましい地図を顔に近づけ、皆を導くために文字を解読しようとしているわけではない。 ただ、他人の悲鳴が刻まれたこの不潔な皮膚を独占し、自分が誰よりも過酷な役回りを引き受けているのだと錯覚したかっただけだ。 そうして自分が被害者であるかのように振る舞っていれば、あの病室で暴かれた自分自身の罪悪感から目を背け、自分が安全な場所にいた加害者であるという事実を塗り潰せる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、この生温かい物体を握りしめるエネルギーとなっているに過ぎない。

「私」は大きくずらした顎を戻し、その羊皮紙を握りしめた。 指の間に、誰かの体毛が挟まる。 胃の底がドロリと沈み込み、気管支(きかんし)がヒクッと引き攣る。 ボタンを弾く。

 カチッ、カチッ。

 戻る場所はない。 ただ、深く、生温かい管の底へと下りていく。 三十七度の微熱と酸っぱい悪臭がこもる鉄の箱の中で、ただ粘液の滴る音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。


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