――第 041 幕 粘膜の回廊――
前方に続く空間。 ピンク色に腫れ上がった粘膜が、床も、壁も、天井も完全に覆い隠し、隙間なく癒着している。 ただ、肉そのものが帯びている微弱なリン光が、うねる空間の輪郭をどす黒く浮かび上がらせていた。
それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。 どうでもいい。 この不快な極彩色の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
アンモニアと古い血、そして強烈な胃酸の臭気が、ドロドロのゼリーのように空気中に滞留している。 息を吸い込むたび、気管支の壁がチリチリと焼け、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
「私」のサイズの合わない革靴が、ブヨブヨとした床の肉に数センチ沈み込む。
粘着。
体重を移動させるたびに、肉の表面から白濁した消化液が「ジュワッ」と滲み出し、靴底のゴムを微細な気泡で溶かそうとまとわりついてくる。 足を上げるたび、靴底と床の肉の間で、黄色い粘液が長く長く糸を引き、ひどく湿った摩擦音が狭い管の中に反響した。 「私」の後ろには、三つの足音がゼロ距離で張り付いている。 「私」は右手に癒着した佐渡赤玉石を前方へ掲げる。
石が放つ熱の半径二メートルの結界。 彼らは「私」の背中にへばりつくようにして、寸分違わぬ歩幅で追従していた。 ボタンを弾く。カチッ。
なぜ私は、この狂人たちを自らの熱の結界に匿い、先導しているのか。 彼らの生存確率を論理的に計算し、連れて行くメリットを弾き出すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつくアンモニアと強烈な胃酸の悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。
「臭え……臭えんだよ、クソが……ッ!」
金髪の男が、「私」のすぐ背後で濁った呼気を吐き続けている。 息継ぎをするたびに唾液が喉に絡み、湿った音が鳴る。 彼の歩幅は「私」を追い越さない。
ミリ……ミシミシ……。
周囲の壁は、一定のリズムで蠕動を繰り返している。 その表面にびっしりと生えた無数の細かい絨毛が一斉にうねり始めた。
「ひ、あッ……!」
後方から、ヨレたカーディガンを着た男の、引き攣った裏声が上がる。 壁から伸びてきたピンク色の細い毛の群れが、彼の衣服にねっとりと絡みつく。 微細な毛先は、彼の耳の穴や、鼻腔の奥へと直接入り込もうと先端を振るわせている。
「やめろ、入ってくるなァッ!」
彼は自らの顔を両手で激しく掻きむしった。 自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ、メキッ。
骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 爪で顔の皮膚を深く引っ掻く。 彼の指先から滲んだ血の鉄錆臭が、アンモニア臭と混ざり合う。 ボタンを弾く。カチッ。
ドンッ。
不意に、進行方向の奥深くから、重低音が響いた。
嚥下。
生魚の腐った内臓と、濃縮された胃酸を煮詰めたような強烈な生温かい突風が、前方から一直線に吹き抜けてきた。 眼球の表面が瞬時に乾燥し、喉の奥がカラカラに干からびる。 「私」は呼吸を止め、足を止めた。
直後。背後にいた三人が止まりきれず、「私」の背中に激突した。
ドン、という鈍い衝撃。 「私」のコートの背中に、紺色のスーツを着た女の顔が、強く押し付けられる。 彼女は、枯れ果てた右腕を左手で抱え込んだまま、喉の奥で「ヒッ」と空気を漏らした。 眼球の表面から分泌された冷たい水分と、毛穴から滲み出たどろりとした脂汗が、「私」のコートの生地にねっとりと染み込んでいくのが、背中越しに生々しく伝わってくる。
胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に酸っぱい味が広がる。 「私」は大きく顎をずらし、過剰な唾液をゴクリと飲み下した。 アンモニアと胃酸の悪臭。 同じ粘液の泥。 他人の排泄物のような三十七度の体温。
私がこの石の熱で彼らを守り、先導しているわけではない。 かつて私を追い詰めた者たちが、今や私の庇護なしでは一歩も進めず、恐怖に怯えて私の背中にすがりついている。 その無様な姿を絶対的な優位から見下ろすことで、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感から目を背けたかったのだ。 他者を従属させ、惨めな命を握り潰せる位置にいれば、自分だけはまだ「正常で、力のある側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、右腕の激痛の裏側で暗い快感となって這い上がってくる。
「私」は、右手の石札を強く握り直す。
炭化した皮膚から滲んだ血が、石の熱でチリッと焦げる。 タンパク質の焦げる香ばしい臭いが、腐肉の臭いと混ざり合う。 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 ボタンを弾く。カチッ。 「私」は再び、粘液の泥沼へと重い靴底を引き剥がした。
粘着。
背後の三人もまた、その湿った水音に合わせ、「私」の足跡を正確に踏みしめて続く。 三十七度の生温かい熱風の中で、ただ肉の焦げる臭いとプラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




