――第 040 幕 汚れた命令――
遠くから、「ズズッ、ジュボッ」という、分厚い肉が擦れ合う重い水音が響いている。
「私」の右手に完全に癒着した佐渡赤玉石から放たれる熱。 半径二メートルの空間だけが異常乾燥し、熱した砂のような空気が気管支の粘膜をチリチリと焼く。 結界の外側では、熱から逃れた数十の肉袋たちが、座席や網棚にひしめき合って蠢いていた。 彼らが退避した後の床には、黄色く白濁した分泌液が、足首が埋まるほどの深さでドロドロに溜まっている。 アンモニアと腐った獣脂を乱暴に混ぜ合わせたような強烈な悪臭が、熱気と共に肺の奥底にベットリと張り付く。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
「私」はゆっくりと振り返る。 チンピラは、失禁して重くなったズボンのまま、床の粘液にへたり込んでいる。 眼球がデタラメな方向へ回転し、視線が上下左右にせわしなく点滅を繰り返している。 助手は、割れかけた眼鏡の奥で白目を剥き、よだれを垂らしながら、乾いた摩擦音をブツブツと吐き出し続けている。 紺色のパンツスーツを着た女は、自分の枯れた右腕を左手で抱え込み、上下の歯を激しくぶつかり合わせている。
ガチガチガチ。
彼女は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
ボタンを弾く。
カチッ。
なぜ私は、この狂人たちを自らの熱の結界に匿っているのか。 彼らの生存確率を論理的に計算し、連れて行くメリットを弾き出すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつくアンモニアと腐った獣脂の悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線がドロドロに溶け落ちていく。
「……離れるな」
熱でひび割れた「私」の唇から、空気が漏れるような摩擦音が落ちる。
「半径二メートルから出たら、溶ける」
極度に乾燥した音波が、アンモニアの臭いの中に落ちる。 「私」の音声波形に、チンピラが「へ、へへ……わかってる」と、頬の肉を引き攣らせながら顎を上下させた。
ズクン。
「私」の胸の奥で、重く粘着質な熱が膨張した。 石の熱ではない。 紺色のスーツが泥にまみれ、サイズの合わない革靴の先にへばりついている。 視界の端が白くチカチカと明滅する。 「私」の脳髄の奥底に、どす黒い体液が溢れ出した。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ臓器の……いや、違う。
なんだろう、あれは。 どうでもいい。 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
私が彼らを守護しているわけではない。 かつて私を問い詰め、追い立てた者たちが、今や私の庇護なしでは一秒も生きられず、汚泥の中で失禁して這いつくばっている。 その無様な姿を絶対的な優位から見下ろすことで、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感から目を背けたかったのだ。 他者を従属させ、惨めな命を握り潰せる位置にいれば、自分だけはまだ「正常で、力のある側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化と支配欲が、右腕の激痛の裏側で暗い快感となって這い上がってくる。
口の中に広がる鉄錆の味を飲み込む。 「私」の口角が、耳の付け根に向かってゆっくりと吊り上がっていく。 顔の筋肉が引きつり、笑顔の形に固定される。 左手でボタンを弾く。
カチッ。
「私」は、サイズの合わない革靴を、粘液の泥の中へ踏み出す。
ピチャリ。
腐肉のスープが靴底を濡らす。 「私」はわざと、極端に遅い歩幅で足を運ぶ。
追随。
背後から、三つの足音が「私」の靴底の跡を正確にトレースしてくる。 ひどく湿った摩擦音。 その音が鼓膜を叩くたび、「私」の気管支が広がり、腐った獣脂の悪臭が胃の底へドロリと沈殿していく。 警官のライターの蓋が、歩く振動に合わせて「カチャ、カチャ」と鳴る。
異常乾燥した熱気とアンモニアの悪臭が混ざり合う空間に、ただプラスチックの反復音と、金属の摩擦音だけが充満し続けていた。




