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――第 039 幕 跪く捕食者たち――

 右手の掌に完全に癒着(ゆちゃく)した佐渡赤玉石(さどあかだまいし)から、爆発的な熱量が放射され続けている。 半径二メートルの空間。 分厚いゼリー状の空気の層が破れ、湿気とカビの臭いが揮発した異常乾燥の空洞が形成される。

 呼吸をするたびに、熱した砂のような空気が気管支の粘膜(ねんまく)をチリチリと焼く。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 指を微かに動かす。

 炭化して石と張り付いた掌の皮膚が、ピリッと裂ける。 露出した真皮から滲んだ血が、滴り落ちる前に石の熱に触れ、ジュッと沸騰して微細な泡となり、黒いカサブタへと変わった。

 痛覚のパルスが脳髄の表面を直接削り取る。

 左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。

 通路を塞いでいた巨大な肉の壁の表面が、ドス黒く変色しながら急速に縮み上がった。 彼らは関節のない丸い巨体をよじらせ、通路の左右――座席の上や、網棚の隙間へと、ズルズルと這い上がっていく。 数十の巨体が同時に動き、肉と肉がぶつかり合う。

 |圧搾《ミチミチッ、ミチチチッ》。

 水風船を力任せに押し潰すような極めて湿った破壊音が、空間に連鎖する。 押し合いへし合いになった肉袋たちの表面が耐えきれずに破れ、中から黄色く濁った体液(リンパ)が滝のように噴き出し、床へ降り注ぐ。 それはまるで、熱したフライパンに落とされた薄切りの……いや、違う。

 なんだろう、あれは。 どうでもいい。 この不快な極彩色の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。 ボタンを弾く。カチッ。

「……負の、走性」

 背後で、掠れた摩擦音が這い上がってきた。 ヨレたカーディガンを着た助手だ。 彼は床に這いつくばったまま、割れかけた銀縁眼鏡の奥で、眼球を左右にギョロギョロと動かしている。

「熱源に、対する……」

 彼の口の端から、酸っぱい唾液(だえき)が糸を引いて床に垂れ落ちる。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 ガリッ、メキッ。

 骨を噛む硬質な振動が空間の空洞を揺らす。

 なぜ、この肉の塊たちは熱に反応して退避行動をとるのか。 その生態的なメカニズムを論理的に分析すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻腔の奥にへばりつくアンモニアと腐肉の入り混じった悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。

 この臭気が邪魔だ。

 まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。

 助手の横で、警官の喉がヒクッと引き攣り、乾いた排気音が漏れる。 チンピラは、ズボンの股間から生温かいアンモニア臭を漂わせながら、口を半開きにしてこちらを見上げている。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液をゴクリと飲み下す。

 私がこの石の熱で彼らを守り、道を切り開いているわけではない。 ただ、かつて私を追い詰めた者たちが失禁し、恐怖に怯えて這いつくばる姿を特等席で見下ろすことで、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感から目を背けたかったのだ。 他人が自分以上に惨めに壊れてくれれば、自分だけはまだ「正常な側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。

 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、右腕の激痛の裏側で暗い快感となって這い上がってくる。

 口角が、耳の付け根に向かってゆっくりと吊り上がっていく。 顔の筋肉が引きつり、笑顔の形に固定される。 焼け焦げる右手の激痛の裏側で、視界の端が白くチカチカと明滅を始める。 頭蓋骨の裏側で微小な火花が弾ける。 ボタンを弾く。カチッ。

 肉袋たちが這い上がった後の床のカーペット。 そこには、彼らの体表から分泌された黄色い粘液(ねんえき)が、足首が埋まるほどの深さでドロドロに溜まっていた。 アンモニアと、腐った獣脂を乱暴に混ぜ合わせたような、鼻の粘膜を焼く強烈な悪臭。

 粘液の表面には微細な気泡が浮き、ゆっくりと弾けては黄色いガスを吐き出している。 「私」は猫背のまま、サイズの合わない革靴を、その汚泥の中へと踏み出した。

 粘着(ネチャアッ)

 靴底がズブリと沈み込み、腐肉のスープが足首の布地を濡らす。 右手の焦げる肉の痛みと、鼻腔に張り付くアンモニアの臭い。 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。 ボタンを弾く。カチッ。

 異常乾燥した熱気と悪臭の混ざる空間に、ただプラスチックの反復音と、粘液を踏みしめる水音だけが鳴り続けていた。


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