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――第 037 幕 脳髄を焼く周波数――

 完全な暗闇の中。 床下から響く重低音に合わせて、車両の壁が内側から脈打つように膨張(ぼうちょう)を繰り返している。

 湿気を吸って膨れ上がったカーペットを踏みしめるたび、ジュブッ、という黄色い粘液(ねんえき)の弾ける音が鳴る。 腐った獣脂の甘ったるい臭いと、古い血の鉄錆臭が、分厚いゼリー状の空気の層となって気管支の粘膜(ねんまく)にべっとりと張り付く。

 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。

 前方を塞ぐ無数の肉袋たちの頭部が、一斉に蠢いた。 のっぺらぼうの頂点が、メリッと十字に裂ける。 中には歯も舌もない。 薄桃色の滑らかな粘膜(ねんまく)で構成された、暗い空洞があるだけだ。

 直後。

 空間を満たしていた高粘度の空気が、硬質なブロックへと物理的に圧縮され、鼓膜へ無理やりねじ込まれた。 濡れた発泡スチロールを力任せに擦り合わせるような、神経の束を直接削り取る高周波。 それに重なるように、巨大な重機が地殻の岩盤を粉砕するような、胃の底を直接揺さぶる重低音。

 二つの相反する波長が、閉鎖された車内で衝突する。 空気が過剰な振動のあまり、白濁した霧のように視界を遮り始めた。 ボタンを弾く。

 カチッ。

 この致死的な周波数の発生源と空間の反響率を論理的に分析すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく腐った獣脂の臭いが、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。

 この臭気が邪魔だ。

 気管が細かく痙攣(けいれん)し、まともな思考の結線がドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。

 どうでもいい。

 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。

「……ッ!」

 背後で、空気が破裂するような音がした。 ヨレたカーディガンを着た助手が、白目を剥いて水分を含んだカーペットの上に倒れ込み、上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせている。

 ガチガチガチ。

 彼の鼻と耳の穴から、どす黒い血が間欠泉のように噴き出した。 顔にかかっている銀縁眼鏡のレンズの表面に無数の細かいヒビが走り、ガラスの微粉末が白い霧のように空中に舞い上がる。 鉄錆の臭いが獣脂の臭いに混ざる。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 ガリッ、ガリッ。

 爪が皮膚を削る振動が骨を伝う。

 チンピラは、手にした金属片を取り落とし、床の粘液(ねんえき)の上で仰向けに倒れた。 ズボンの股間から、生温かい排泄物のアンモニア臭が爆発的に広がり、カビの臭いを上書きしていく。 彼は白濁した泡を口の端からカニのように吹き出し、眼球がデタラメな方向へ回転している。 ボタンを弾く。

 カチッ。

 紺色のパンツスーツを着た女は、床を転げ回りながら、自分自身の両手の爪を、両耳の穴の奥深くへと突き立てていた。

 自傷(スクラッチ)

「ア゛、ア゛ア゛ア゛ッ!」

 喉の奥から、乾いた摩擦音が漏れる。 爪が肉を裂き、指の関節が耳の穴に埋没するほど深く食い込んでいる。 引き抜くたびに、血と細かい軟骨の破片が飛び散り、彼女の白い頬を赤黒く汚していく。

「私」は、立っていた。 口の中の奥歯。 銀色の詰め物が、空間の周波数と完全に共鳴し、高熱を発し始めている。

 熱傷(チリチリ……)

 口腔内の粘膜(ねんまく)が焼ける音。 タンパク質が焦げる臭いと、微細な血管が破裂した鉄の味が唾液(だえき)に混ざり、喉の奥へドロリと流れ込む。 視界全体が、アナログテレビの砂嵐のようにザラザラと明滅を繰り返す。 重力の方向がドロリと溶け落ちる。 左手でボタンを弾く。

 カチッ。

「私」は、熱を持つ口からよだれを垂らしながら、猫背のまま一歩を踏み出した。 床の粘液(ねんえき)をピチャリと踏みしめ、転げ回る警官の横にしゃがみこむ。 彼女が自らの耳を抉ろうとしている両手首を掴み、引き剥がす。 関節の硬直した筋肉をねじ伏せる。 そして、「私」は自分の両手で、彼女の耳の穴に分厚い蓋をした。

 密着(ピチャリ)

 掌に、彼女の耳の奥から溢れ出した生温かい血液が、ベットリと吸い付く。

 私は、彼女の命を救うという崇高な目的のために手を伸ばしたわけではない。 彼女が自傷によって完全に壊れ、機能停止してしまえば、あの不潔な病室で暴かれた自分自身の罪悪感をなすりつける対象が消えてしまうからだ。 他人が恐怖と苦痛に悶え続ける姿を繋ぎ止めることで、自分だけはまだ「正常な側の人間」なのだという錯覚にすがりつきたい。 そんな極めて卑小で利己的な自己正当化の欲求が、他者の耳を塞ぐという行為の原動力となっていた。

 焼け焦げる口腔の激痛(ペイン)と、他者の血の熱さ。 鉄錆の臭いと焦げた肉の臭いが交じり合う。 左手でパジャマのボタンを弾く。

 カチッ、カチッ。

 三十七度の微熱の中で、ただ血が滴る粘着音とプラスチックの反復音だけが、白濁した振動の波に洗われ続けていた。


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