――第 036 幕 変異する境界――
アンモニアの刺激臭と、古いタンスの防虫剤の臭いがドロドロに混ざり合い、三十七度前後の生温かいゼリー状の大気となって気管支の粘膜にべっとりと張り付く。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 背後の床から、ガン、ガンという硬質な打撃音が一定の周期で反響している。 頭を肉の壁に打ち付け続ける助手の摩擦音だ。 左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
「私」は、振り返って彼の自傷行為を止めるべきなのかもしれない。 だが、私は次の車両へと続く隔壁の前に立ち尽くしたまま、背後の狂乱をただ薄目で見下ろしていた。 彼が狂気に沈み、幼児のように泣き喚けば喚くほど都合が良いのだ。 他人が自分以上に惨めに壊れてくれれば、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰される。 自分だけはまだ「正常な側の人間」なのだという錯覚にすがりつきたいという、極めて卑小で醜い逃避本能が、彼に手を差し伸べるエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。
ひしゃげた鉄のドアの表面は、すでに赤黒い肉の襞に完全に覆い尽くされている。 ドアノブの存在した場所から、黄色い粘液が微細な気泡を立てて滲み出し、糸を引いて床の汚水へと滴り落ちていた。
ポタリ。ポタリ。
極めて粘着質な水音が、空間の圧力を微細に揺らす。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。 どうでもいい。 この不潔な極彩色の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。 ボタンを弾く。
カチッ。
「私」の右手のポケットの底。 氷塊のように冷え切っていた佐渡赤玉石の札が、不規則なリズムで微細な熱の脈動を打ち始める。
掌の皮膚がチリチリと静電気を帯びたように痛み、血管を逆流する熱が脳髄の表面を撫で回す。
この空間の変異の法則を論理的に分析すべきなのだろう。 なぜ無機物が有機物に侵食されているのか。 だが、息を吸い込むたびに鼻腔の奥にへばりつくアンモニアと防虫剤の混合臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく引き攣り、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。
足元の肉の床にサイズの合わない革靴を沈み込ませ、前方へ一歩を踏み出す。
吸着。
靴底のゴムが、水分を過剰に含んだ粘土のような肉に吸い付く、ひどく湿った摩擦音。 「私」が近づくと、前方を塞いでいた分厚い肉の扉が、水分を含んだ分厚い唇が擦れ合うような「ズズズッ」という音を立てて、左右にゆっくりと開いた。
吹き込んできたのは、腐った獣脂の甘ったるい臭いと、古い血の鉄錆臭だった。
暗闇の向こう側。 点滅するドス黒い赤色の非常灯の下、通路の床から天井までを埋め尽くすように、無数の丸い影がひしめき合っている。 のっぺらぼうの顔を持つ数十の肉袋たち。 それらが、等間隔に配置され、微動だにせずこちらを向いている。 三十七度の微熱を持った圧倒的な肉の質量。 酸素の濃度は変わらないのに、空間の密度が極端に重くなる。 物理的な質量を伴う圧力が、全方位から皮膚に突き刺さってくる。
胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に酸っぱい味が広がる。 「私」は大きく顎をずらし、過剰な唾液をゴクリと飲み下した。
左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の臭いが獣脂の臭いに混ざる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 ボタンを弾く。
カチッ。
三十七度の微熱がこもる空間に、ただアンモニアの臭いと、プラスチックの反復音だけが充満していた。




