――第 035 幕 粉砕された知性――
深夜四時五十八分。 狭い連結部の空間。 三十七度前後の生温かいゼリー状の空気に、強烈なアンモニアの臭気が充満し始めている。 足元の肉の床から、生温かい黄色い液体がじわじわと広がり、肉の繊維の奥へと染み込んでいく。 アンモニア臭が気管支をヒクヒクと引き攣らせる。 左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
「細胞の、融解……プロジェリア……脈が……」
助手の上下の歯が、不規則なリズムで激しくぶつかり合っている。
ガチガチガチ。
彼は白衣のポケットからノック式のボールペンを引きずり出し、ペン先を警官の老化した皮膚に力任せに押し当てた。 黒いインクで、シワだらけの腕の表面に、幾何学的な線をガリガリと書き込み始める。 インクの酸っぱい臭いが防虫剤の臭いと混ざる。 息を吸い込むたび、その不潔な化学臭が脳のシナプスの接続を強制的に切断していく。
臭気が邪魔だ。
なぜ彼がそんな無意味な数式を他人の肉体に刻むのか、論理的に分析する思考の結線がドロドロに溶け落ちていく。 ボタンを弾く。
カチッ。
「やめ……」
警官の喉から、かすれた摩擦音が漏れる。 彼女は腕を引こうとするが、助手は止まらない。 彼はボールペンを床の肉へ投げ捨て、自身の親指の爪を、警官の腕のひび割れた皮膚の隙間へと深くねじ込んだ。
乾燥しきった皮膚を根元から引き剥がす、鈍い摩擦音。
剥がされた皮膚の下から、赤い筋肉や生温かい血は出ない。 サラサラとした、乾燥した灰色の砂が、傷口からとめどなくこぼれ落ちてくる。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた……いや、違う。
なんだろう。どうでもいい。
この極彩色の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。 こぼれ落ちた砂は、失禁したアンモニア臭い水溜まりに落ち、ジュワッと微細な泡を立てて不潔な泥へと変わっていく。 視界の端が白くチカチカと明滅する。 ボタンを弾く。
カチッ。
「あ、あああ……ッ!」
警官の喉から、気管が引き裂かれるような高い摩擦音が弾けた。 彼女は、残された左足のパンプスのヒールで、助手の腹部を力任せに蹴り飛ばした。
「ゴフッ」
濁った排気音を漏らし、助手が後方に吹き飛ぶ。 背中を脈打つ肉の壁に打ち付け、床の粘液の上へ這いつくばった。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液を飲み下す。 鼻の奥に、古いタンスの防虫剤のような臭いと、排泄物の臭気がべっとりと張り付いて取れない。
床の助手は起き上がらない。 彼のひび割れた銀縁眼鏡の奥で、眼球が小刻みに震え、視界の端で光がチカチカと点滅する。
「こんなの……載ってないよぉ……」
甲高く湿った、摩擦音。 彼は四つん這いのまま、自分の頭を、ドクドクと脈打つ肉の壁に向かって、ガン、ガンと一定のリズムで打ち付け始めた。
「ママ、わかんないよぉ。エントロピーが……」
彼の顔面から滲み出た透明な体液と鼻からの分泌物が、顎を伝って滴り落ちる。 半開きの口から垂れ流された大量の唾液が、床の黄色い泥と混ざり合う。 彼は壁に頭を打ち付けながら、自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎり始めた。
ガリッ、メキッ。
骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 ヨレたシャツの襟元を犬歯で噛みちぎる。
ブチブチッ。
繊維が引き裂かれる鈍い音。 細かい布の切れ端が、涎まみれの口元にへばりつく。 眼球の裏側で微小な火花が弾ける。
私は彼を止め、正気を取り戻させるべきなのだろう。 だが、私はただ薄目を細めて、彼らが互いを傷つけ合い、幼児のように狂乱する様を見下ろしていた。 彼らが理性を失い、醜く壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されるからだ。 他者の無様な姿を傍観することで、自分だけはまだ「正常な側の人間」なのだという錯覚にすがりつきたいという、極めて卑小で利己的な自己正当化の欲求が、彼らを助けようとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。
「私」は、ズボンのポケットの底へ右手を深く押し込む。
絶対零度の冷気。
指先に触れる佐渡赤玉石は、氷塊のように冷え切り、掌の血管から静脈を逆流して脳髄の血管を冷やしていく。 凍りつくような痛覚が首筋をチリチリと撫でる。 この冷徹な激痛だけが、都合の良い言い訳となる。
痛いから何もできないのだと、自らの怯えと醜い選択を、強引に肉体の負荷へとすり替えているだけだった。 左手でパジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
三十七度前後の生温かい微熱とアンモニアの臭いがこもる空間に、ただ肉と布が引き裂かれる音と、プラスチックの反復音だけが充満していた。




