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――第 034 幕 隠蔽の反復――

 深夜四時五十五分。 足裏のゴム底が、水分を過剰に含んだ渡り板の肉を「ジュルッ」と踏みしめる。 次の車両へと続く隔壁。 ドアの鉄板が、内側からの圧力でひしゃげている。 表面は赤黒い錆で覆い尽くされ、塗装の残骸がカサブタのように浮き上がっていた。 冷たい金属のドアノブからは、血液のように粘度の高い赤い粘液(ねんえき)が、ドロリ、ドロリと絶え間なく滴り落ちている。

 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。 どうでもいい。 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。

 息を吸うたびに、喉の奥の粘膜(ねんまく)に泥のような重い空気がこびりつく。 気管が塞がれ、声帯を震わせようとしても、ヒューッという排気音が漏れるだけだ。 「私」は大きくずらした顎を戻し、耳抜きをする。 左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。 紺色のスーツが、「私」の肩を荒々しく擦り抜けた。 警官だ。 彼女の青白い顔面からは、ドロリとした生温かい水分が顎を伝って汚れた襟元へ落ちている。 眼球の毛細血管が赤く染まり、上下の瞼が一度も触れ合わず、表面が乾燥していく。

 彼女の浅い呼気が、古いタンスの防虫剤と、湿気た線香が入り混じったような臭気を吐き出し、鼻腔にべっとりと張り付く。 息を吸い込むたび、気管支(きかんし)が細かく痙攣(けいれん)する。 ボタンを弾く。

 カチッ。

 彼女は、粘液にまみれたドアノブを両手で掴んだ。 ガタガタと揺さぶる。

 吸着(ヌチャリ)

 狭い連結部の空間。 血の鉄錆臭と粘液の生臭さに、そのむせ返るような線香の臭気がドロドロに混ざり合う。 この防虫剤と線香の不潔な悪臭が邪魔だ。 まともな思考が組み上がらず、状況を論理的に分析してドアを開けるための結線がドロドロに溶け落ちていく。

「あ……、あ……」

 警官の口から、空気が引き裂かれるような摩擦音がこぼれ落ちる。 彼女の膝の軟骨が不規則にガクガクと揺れ、靴底が水分を含んだ肉の床を擦ってズリッと鳴る。 彼女は左手で、汚れた紺色のスーツの袖口を強く引っ張り、枯れた右腕を覆い隠そうと布を擦り続けた。

 ズリッ、ズリッ。

 極度に乾燥した皮膚が繊維と擦れる鈍い音。 布を引っ張る。

 ズリッ。

 右腕の皮膚からフケのような粉がパラパラと落ち、アンモニアと防虫剤の臭いが空間のゼリーの中で膨張(ぼうちょう)する。 視界の端が白くチカチカと明滅する。

 私は、彼女の狂乱を止めようとはしなかった。 彼女が自分の枯れた腕という現実から目を背け、無様に布を引っ張り続ける姿をただ薄目で見下ろしていた。 恐怖で動けないのではない。 他人が惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた自分自身の罪の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されるからだ。 他者の醜態を傍観することで、自分だけはまだ「正常な側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができるという、極めて卑小で利己的な自己正当化の欲求が、彼女を助けようとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。

「私」は、右手のポケットの底で、絶対零度の冷気を放つ佐渡赤玉石(さどあかだまいし)を握りしめていた。 指先に食い込む硬い角の感触。 凍りつくような痛覚(ペイン)が静脈を逆流し、脳髄の血管を直接冷やしていく。 この冷徹な激痛だけが、都合の良い言い訳となる。

 痛い。

 痛いから何もできないのだと、自分の怯えと醜い選択を、強引に肉体の負荷へとすり替えているだけだった。 左手でパジャマのボタンを弾く。

 カチッ、カチッ。

 三十七度前後の生温かい微熱がこもる空間に、ただ布が擦れる音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。


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