――第 033 幕 呼吸する連結器――
深夜四時五十分。 先頭車両へと続く隔壁のドアノブを、金髪の男が回した。
油の切れた金属が削れ合う、重く硬い摩擦音。
ドアが外側に開いた瞬間、その数センチの隙間から、三十七度前後の生温かい突風が吹き込んできた。 腐敗した魚の内臓と公衆便所の尿石をドロドロに煮詰めたような、強烈な悪臭。 息を吸い込むたび、気管支がヒクッと痙攣する。 「私」は左手でパジャマの第一ボタンを弾く。
カチッ。
男の顔の筋肉が非対称に引き攣り、自らの腕で鼻と口を覆う。 その風には、微細な液滴が混ざり込んでいた。 むき出しの首筋や頬に、目に見えない無数の「湿った産毛」がへばりつく。
全身の毛穴が収縮し、ドロリとした冷たい体液が分泌される。
ボタンを弾く。カチッ。
「……通れねえよ、こんなトコ」 男の掠れた声は、分厚い空気の層に押し潰される。
轟音。
車輪が鉄のレールを刻む摩擦音ではない。 狭い肉の管を大量の空気が通り抜ける「ヒューッ、ヒューッ」という巨大な排気音が、空間のゼリーを震わせる。 「私」は大きく顎をずらし、過剰な唾液を飲み下す。
ボタンを弾く。カチッ。
「私」は、男の背中越しに幌の内側を見た。 渡り板の床材は、赤黒く、テカテカと濡れた光沢を反射する表面へと変質している。 男がゴム底の靴で、その上に一歩を踏み出した。
吸着。
水分を過剰に含んだ分厚い「舌」を直接踏みつけたような水音。 靴底がズブリと沈み込む。 床の肉が靴裏のゴムに吸い付く。 黄色く濁った体液が、靴の周囲からジワリと滲み出し、微小な泡を立てて弾けた。
生臭い尿石の臭気が膨張する。
ボタンを弾く。カチッ。
「気管支音……連続性ラ音……狭窄している」 後方の暗がりから、ヨレたカーディガンを着た男が、白濁した眼鏡の奥で焦点の合わない目を剥き、音素の羅列を吐き出し続けている。 彼の半開きの口から、透明な唾液が細く糸を引き、床のカーペットへと滴り落ちる。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ、メキッ。
爪が皮膚を削る振動が骨を伝う。 この渡り板が肉に変質している生態学的な構造を、論理的に分析すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく公衆便所の尿石と腐敗した魚の悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。 どうでもいい。 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
私は、前方を塞ぐこの不潔な肉の管に怯える彼らを勇気づけ、先へ進むよう促すべきなのだろうか。 いや、本当は違う。 私はただ、彼らがこの悍ましい空間に恐怖し、無様に顔を引き攣らせて足踏みする様を、彼らの背後から薄目で見下ろしていたかっただけだ。 他人が自分以上に惨めに怯え、狂ってくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼らが弱く愚かであればあるほど、自分だけはまだ「正常で、彼らを観察する側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼らを助けようとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。
閉塞。
分厚い唇が擦れ合うような、ひどく湿った摩擦音。 巨大な括約筋が締まる、有機的な肉の衝突。 肉の壁が塞がる。 前に広がるのは、脈打ち、黄色い粘液を滴らせる肉の管の入り口だけだ。 「私」は右手のポケットの底を探る。
脈動。
氷のように冷え切っていた佐渡赤玉石が、微弱な熱を打ち始めている。
掌の皮膚がチリチリと焼ける痛覚。
タンパク質の焦げる微かな悪臭が、尿石の臭いと混ざり合う。
ボタンを弾く。カチッ。
三十七度の生温かい空気の中で、湿った摩擦音とプラスチックの反復音だけが鳴り続けていた。




