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――第 032 幕 バベルの気圧室――

 天井の濁った乳白色の光が、蜃気楼のようにグニャリと揺らいでいる。 三十七度前後の、極めて粘度の高い大気が車内を満たす。 呼吸をするたびに、水銀のように重い大気が気管支に無理やりねじ込まれ、肺胞の薄い膜を内側から重く圧迫する。 息を吐き出すたび、古い血の鉄錆臭とカビの臭いがドロリと肺の底に沈殿していく。 粘度を増した大気が光を不規則に屈折させ、わずか数メートル先にいる人間の輪郭すら、深い水底から水面を見上げるようにボヤけて見せる。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。 どうでもいい。 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。

「……ッ、■■■……!」

 ヨレたカーディガンを着た痩せ型の男が、肺の底から空気を絞り出そうと、大きく口を開けた。 助手だ。 彼の首の血管がミミズのように浮き立つ。 空気を震わせたその音声波形は、「私」の鼓膜に届く前に、分厚いゼリー状の空気に押し潰された。

 逆流(ギュルルル、ボコッ)

 深い水底のヘドロの奥から一気に気泡が抜けるような、湿った破裂音が重なる。 助手の口元からは大量の唾液(だえき)の泡がカニのように吹き出し、黄色い粘液(ねんえき)となって顎を伝う。 ボタンを弾く。

 カチッ。

「ッ……!」

 隣に立つ紺色のスーツの女の胃壁が、雑巾を絞るように激しく収縮(しゅうしゅく)した。 彼女は枯れ果てた右腕を抱え込み、上下の歯をガチガチと激しくぶつかり合わせる。 彼女の口の端から、酸っぱい胃液の匂いが漏れる。 彼女もまた、血の滲む乾いた唇を開いた。

「■■、■■■■!」

 彼女の口から飛び出したのは、言葉の波形ではない。

 摩擦(キィィィン)

 錆びた鉄板を硬い金属片で全力で引っ掻くような、耳をつんざく鋭利な高周波。 助手はそれを聞き、過剰な唾液(だえき)を飲み込んでズルリと一歩後ずさった。 靴底が水分を含んだカーペットを擦る鈍い音。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 ガリッ、ガリッ。

 爪が皮膚を削る振動が骨を伝う。

「あ? なんだって?」

 後方で、金髪のチンピラが口を歪めて濁った呼気を上げた。 彼の吐き出す古い油とタバコのヤニの臭いが、空間のゼリーに絡みつく。 その音波もまた、分厚い空気の層に即座に押し潰される。

 振動(ヴゥゥゥン)

 届いたのは、巨大な換気扇が唸るような、腹の底を直接揺さぶる重い低周波だけだった。

 なぜ、彼らの発する音声が空間で変質し、互いに全く通じ合わなくなっているのか。 気圧の変化による声帯の変形か、それともこの粘度の高い大気が特定の周波数を物理的に遮断しているのか。 論理的な仮説を立て、彼らとコミュニケーションを取る手段を探るべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥の粘膜(ねんまく)にべっとりとへばりつく、互いの吐き出す酸っぱい胃液の呼気と古い血の鉄錆臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。

 この不潔な臭気が邪魔だ。

 気管が細かく痙攣(けいれん)し、まともな思考の結線がドロドロに溶け落ちていく。

 互いの吐き出す酸っぱい呼気と、鉄錆の臭いだけが、三十七度の生温かい空間でドロドロに混ざり合う。 手を伸ばせば触れられる距離。 それなのに、分厚い水槽のガラスに閉じ込められたように、音素の輪郭が水圧に押し潰される。 視界の端が白くチカチカと明滅を繰り返す。

 私は、彼らが言葉を失い、孤立していく様に声をかけようとはしなかった。 彼らが互いのノイズに怯え、意思疎通の手段を失って断絶していく姿を、ただ薄目で見つめていた。 それは私が恐怖で動けないからではない。 彼らが言語を失い、完全に狂ってくれれば、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪を、もう誰からも論理的に追及されずに済むからだ。 他者との境界が断絶し、彼らが意味のないノイズを吐き出すだけの肉塊に成り下がってくれることへの、歪んだ安堵感。 そんな極めて卑小で醜い自己保身の欲求が、彼らに歩み寄るためのエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。

「私」は、大きくずらした顎を戻し、自分の口の中で「あ」と発音してみる。 ボタンを弾く。

 カチッ。

 ……あ。

 頭蓋骨の内側で乱反射した自分の声が、コンマ数秒の遅れを伴って鼓膜を叩く。 眼球の裏側で微小な火花が弾ける。 聴覚の反射が狂い、三半規管(さんはんきかん)内の体液(リンパ)が沸騰したように波打ち、足元がぐらつく。 胃の底の未消化物(みしょうかぶつ)がデタラメな方向へ浮き上がる。 私が発声したのは、彼らに呼びかけるためではない。 自分だけはまだ「意味のある言葉」を保っている正常な人間なのだと、自分自身に言い聞かせるための浅ましい確認作業に過ぎなかった。

 粘着質の静寂。

 ただ、互いの吐き出す酸っぱい呼気だけが狭い空間で混ざり合う。 左手でボタンを弾く。

 カチッ。

 その時。 右手のポケットの底。 氷塊のように冷え切った佐渡赤玉石(さどあかだまいし)から、微弱な振動が骨伝導で直接、「私」の頭蓋骨へと昇ってきた。

『……諦メロ』

 硬い石と石が擦れ合うような、純粋な物理現象の摩擦音。 その音波が、頭蓋骨の裏側に物理的な圧力を持って張り付く。 爪が皮膚を削る。

 ガリッ。

 プラスチックのボタンを弾く。

 カチッ、カチッ。

 三十七度の微熱がこもる空間に、ただプラスチックの反復音と、胃酸の酸っぱい臭いだけが充満していた。


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