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――第 031 幕 軟骨の窓――

 天井の非常灯が、チリッと微かな電気音を立てて色を変えた。 どす黒い赤色から、古い脂肪のような、濁った黄色がかった乳白色へ。

 鼓膜を圧迫していた水鳴りが唐突に途絶える。 代わりに床と壁の奥底から、無数の太いミミズが這い回るような、極めて湿った蠕動(ぜんどう)の音が響き始めた。

 ミリ、ミシミシ。

 床と壁が、一定の周期でゆっくりと膨張し、収縮している。 胸郭が外側から圧迫され、気管支がヒクヒクと細かく引き攣る。 カビの臭いと、強烈な酸の刺激臭、酸化した古い血の鉄臭さがドロリと混ざり合う。 三十七度前後の生温かい大気が、鼻の粘膜(ねんまく)にべっとりとへばりつく。

「私」は大きく顎をずらし、過剰な唾液(だえき)を飲み下した。

 ゴクリ。

 胃の底に微熱が灯る。 左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。

 この空間の変質と蠕動の法則を論理的に分析すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻腔の奥にへばりつく強烈な酸の刺激臭と古い血の臭いが、脳細胞のシナプスの接続を強制的に切断していく。

 この臭気が邪魔だ。

 気管が細かく痙攣(けいれん)し、まともな思考がドロドロに溶け落ちていく。 無数の太いミミズのようなあの音は、まるでかつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。

 なんだろう、あれは。 どうでもいい。 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。

 数メートル横で、紺色のスーツを着た女が丸まっている。 彼女の鼻の穴から、どす黒く凝固しかけた液滴がツーッと顎を伝う。 押し当てた白いハンカチは既に赤黒く染まりきり、彼女の浅く細い呼吸音だけが、不規則なリズムを刻んでいる。 パジャマのボタンを弾く。

 カチッ。

「ここから出るぞ」

 金髪の男が後ずさる。 ナイフの柄を握る指先から手首にかけて、先ほどの白濁液がべっとりと付着し、長く糸を引いている。 彼はスカジャンの袖で執拗に右手を擦った。

 ズリッ、ズリッ。

 拭えば拭うほど、粘液(ねんえき)は皮膚の表面で薄く引き伸ばされ、三十七度の生温かい皮膜となって腕全体に広がっていく。 男の眼球が眼窩の中で小刻みに震え、視界の端がチカチカと白く明滅を繰り返す。 彼の上下の歯が不規則なリズムでぶつかり合う。

 ガチガチガチ。

 袖で右手を擦る。

 ズリッ。

 嘔吐(ゲチャア)

 未消化の黄色い胃液(いえき)が、床のカーペットにぶちまけられる。 酸の臭いが、狭い空間でさらに濃度を増す。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 彼は両膝をつき、粘液まみれの手で床を掻きむしりながら、胃液が空になってもヒューッ、ヒューッと乾いた排気音を吐き出し続けている。 床を掻く。

 ズズッ。

 私は彼らに声をかけ、この集団的な狂気から引き戻すべきなのだろう。 だが、私はただ薄目を細め、他人が嘔吐(おうと)し、恐怖に這いつくばる様を静かに観察していた。

 彼らが限界を迎えて惨めに壊れてくれればくれるほど、自分だけはまだ「正常な側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 他者が異常であればあるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪の輪郭が有耶無耶に塗り潰されるからだ。 そんな極めて卑小で醜い自己保身の欲求が、彼らに手を差し伸べるエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。

「私」は、ズボンのポケットの底で氷塊のように冷え切った佐渡赤玉石(さどあかだまいし)を握りしめた。 絶対零度の冷気が、掌の血管から静脈(じょうみゃく)を逆流する。 男が殴った窓の表面を見つめる。 白濁した軟骨の向こう側。 そこには、赤黒い太い血管(けっかん)が幾重にも走っているのが透けて見えた。 そして、その血管の奥深く。

 ボーリングの球ほどもある巨大な眼球の輪郭が、ゆっくりと横に動き、こちら側をギョロリと覗き込んできた気配が、網膜の裏側に焼き付いた。 視界の端で微小な火花が弾ける。 「私」は左手でパジャマの第一ボタンを弾き続けた。

 カチッ、カチッ。

 三十七度の生温かい空気の中で、酸の臭いと鉄錆の臭いが充満し、ただ布を擦る音とプラスチックの反復音だけが鳴り続けていた。


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