――第 030 幕 深海への沈下――
空間を圧殺していた鋼鉄の軋み音が、唐突に途切れた。 鼓膜が内側から外へと、力任せに引き剥がされる。 視界の端が白くチカチカと明滅し、耳の奥にへばりついていた大気が、分厚い水槽の底に沈んだようにくぐもっていく。 頭蓋骨の裏側に、「キーン」という鋭利な高周波だけがこびりつく。 自分自身の心臓が血液を送り出す「ドクン、ドクン」という重い脈動すら、極めて遠く、粘り気を帯びて反響する。 左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。 息を吸い込むたび、古い脂の発酵臭と鉄錆の臭いが気管支にべっとりと張り付き、肺の奥に細かい砂利が沈殿していく。
「ポコッ」
窓の隙間から、泥が抜けるようなひどく湿った水音が鳴った。 胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に酸っぱい味が広がる。 加重の方向が、デタラメな角度へ折れ曲がった。 内臓が本来の配置を見失い、骨盤の横へ向かってドロリと沈み込む。 大きく顎をずらし、過剰な唾液をゴクリと飲み下す。 ボタンを弾く。
カチッ。
気圧の急激な変化。 耳の奥で微細な毛細血管がパチパチと破裂し、生温かい鉄の味が喉の奥へと流れ込む。 窓ガラスが、車内側へと、三十七度前後の微熱を持った水風船のように膨らみ始めている。 外側から押し寄せる圧倒的な質量の水圧。 ガラスの縁の黒いゴムパッキンから、黄色い粘液がジュワジュワと微細な気泡を立てて滲み出している。 それに混じるのは、酸素を失ってどす黒く濁った血の色だった。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ臓器の……いや、違う。
なんだろう、あれは。 どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。 鉄錆の臭いが一気に膨張し、カビの臭いと混ざり合う。 ボタンを弾く。
カチッ。
この異常な気圧低下と、ガラスが内側に膨らむ物理的要因を論理的に分析すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻腔の奥にへばりつく古い脂の発酵臭と、頭蓋骨を削るような耳鳴りの高周波が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この臭気とノイズが邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線がドロドロに溶け落ちていく。
通路の隅。 紺色のスーツを着た女が、水分を含んで膨張したカーペットに這いつくばっている。 彼女は両手で耳の穴を力任せに塞いだまま、自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎっていた。
ガリッ、メキッ。
骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 爪が根元から剥がれ、生温かい血液がひび割れた唇をドス黒く汚すが、彼女は指を口から出さない。
ガリッ。
私は、異常な気圧に苦しむ彼女に手を差し伸べ、耳抜きの方法を教えるべきなのかもしれない。 だが、私はただ床に膝をついたまま、彼女が爪を噛み砕き、自傷に走る様を薄目で見下ろしていた。 それは私が恐怖で動けないからでも、自らの痛みに耐えるのに必死だからでもない。 彼女が恐怖と苦痛に支配され、惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた自分自身の罪の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されるからだ。 他者の無様な姿を傍観することで、自分だけはまだ「正常な側の人間」なのだという錯覚にすがりつきたいという、極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼女を助けようとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。
「私」は、右手のポケットの底へ指を押し込む。 完全に炭化して癒着した佐渡赤玉石が、絶対零度の冷気を放ち、掌の血管を逆流して脳髄の血管を凍らせている。 左手でパジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
三十七度の生温かい空気の中で、ただ爪が骨を削る音と、プラスチックの反復音だけが、水底のように重い車内に充満していた。




