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――第 029 幕 加速する閉塞感――

 窓の外の白い光の点滅が、視神経の処理限界を超え、ひどくざらついた一本の光の帯へと液状化して溶け合う。 網膜の表面がジリッと音を立てて焼ける。

 ゴォォォォォォッ。

 鼓膜を内側から引き裂くような高周波の風切り音と、車体の鋼鉄が限界を超えて擦れ合う金属音が、ゼリーのように澱んだ空気を切り裂く。 床下から突き上げる不規則な震動が、水分を含んで膨張したカーペットを貫通し、脛の骨から胃の底に溜まった未消化物を直接揺さぶる。 息を吸い込むたび、未消化の胃液の酸っぱい臭いと、古い脂の発酵臭が気管支にべっとりと張り付き、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。

 強烈な加重が肉体を圧迫する。 リンパ液がデタラメな方向へ波打ち、内臓が本来の配置を見失って骨盤の底へ向かってドロリと沈み込む。 胃の底に溜まっていた未消化物が食道を逆流し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 大きく顎をずらし、過剰な唾液(だえき)と共にそれを無理やり飲み下す。

「私」の顔面の皮膚が、見えない力で後方へ力任せに引っ張られた。 両目の端が吊り上がり、乾燥した唇が左右に裂ける。 歯茎を剥き出しにした笑顔の形へと、顔の筋肉が強引に固定される。 ボタンを弾く。

 カチッ。

 通路を挟んだ向こう側。 金髪の男が、金属の手すりに両腕を絡ませている。 彼の指の関節が白く変色し、硬い骨が擦れ合う音が空間に響く。 限界を超えた握力によって、彼の爪と肉の間の粘膜(ねんまく)が裂けた。 どす黒い血が水滴となって滲み出し、冷たいステンレスの表面を滑り落ちていく。 男の上下の歯が不規則なリズムでぶつかり合う。

 ガチガチガチ。

 その後方の暗がり。 ヨレたカーディガンを着た助手が、木目調のパネル壁に背中を押し付けられながら、口から酸っぱい唾液(だえき)の泡をカニのように吹き出している。 彼の手の中の薄型のタブレット端末から「パキッ」と乾いた音が鳴った。 液晶ガラスが内側へ向かってめり込み、割れた隙間から黒いインク状の液体がドロリと漏れ出し、彼の指紋の隙間を不潔に汚していく。 彼は壁に設置された赤い非常通報ボタンへ向かって、右手を伸ばした。

 だが、その腕は目標へは届かない。 空間の加重が、彼の腕の軌道をへし折る。 振り上げた彼自身の拳が、彼自身の鼻柱を全力で殴りつける。

 破砕(ゴシャッ)。

 軟骨が潰れる鈍い音。 彼の鼻の穴から、赤黒い血が噴き出した。 噴き出した血の粒は、真横へ向かって一直線に飛び、白く光る窓ガラスにベチャリと突き刺さった。 男は自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 ガリッ、メキッ。

 生温かい血液がひび割れた唇をドス黒く汚す。

 なぜ、自らの意志と筋肉の連動がここまで狂うのか。 物理的な加重のベクトルを論理的に計算しようとする思考の結線が、ドロドロに溶け落ちていく。 鼻腔の奥にへばりつく胃液の酸っぱい悪臭が邪魔だ。 まともな思考が組み上がらない。

 いや、本当は助けの手を伸ばすべきなのだろう。 だが、私は彼らの無様な自滅を、顔に張り付いた引き攣った笑顔のまま、ただ薄目で観察していた。 他人が重力に押し潰され、狂乱していく姿を見下ろすことで、自分だけはまだ安全な側にいるのだという錯覚にすがりつきたいだけなのだ。 彼らが惨めに壊れれば壊れるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼らに手を差し伸べるエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。

 空間の奥行きが、狂い始めている。 車両の奥が、ゴム紐のように長く伸び、次の瞬間には目の前までアコーディオンのように圧縮される。 視神経の毛細血管が限界を超え、視界の端が黒くチカチカと明滅する。 口の中に、鉄錆の味が広がる。

 座席に深く沈み込んでいた数十の肉袋たち。 彼らの丸い体は、水風船を上から踏み潰したように「ベチャァッ」と座席の上に平たく押し広げられ、黄色い体液(リンパ)を滲ませながら液状になりかけている。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ臓器の……いや、違う。 なんだろう、あれは。

 どうでもいい。

 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。

 胸郭の筋肉が痙攣(けいれん)し、肺がピタリと動きを止めた。 空気を吸い込もうとすると、肋骨が内臓に深く食い込み、鈍い摩擦音を立てる。 左手でパジャマのボタンを弾く。

 カチッ、カチッ。

「私」は、ズボンのポケットの底へ指を押し込んだ。

 完全に炭化(たんか)し、肉と癒着(ゆちゃく)した右掌。 佐渡赤玉石(さどあかだまいし)は、もはや熱を発していなかった。

 冷却(ゼロ)。

 冷凍庫から取り出したばかりの氷塊のように、絶対的な冷気を放ち始めている。 その冷気が、掌の血管から静脈を逆流し、沸騰しかけた脳の血管を冷却していく。

 凍りつくような痛覚(ペイン)が、頭蓋骨の裏側をチリチリと撫でる。

 私はこの冷徹な激痛に没頭することで、自らの罪から目を背け、自分が被害者であるかのように振る舞っているだけなのだ。 純粋な物理的激痛だけが、網膜の裏側で崩壊していく空間のピントを、かろうじて肉体の内側へと縫い留めている。

 視界の端が白く明滅する中、ただ肉が焦げる臭いと、反復されるプラスチックの摩擦音だけが、三十七度の微熱を持った車内に充満していた。


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