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――第 028 幕 限界突破の白――

 窓の外の明滅が、視神経の処理限界を物理的に凌駕する。

 チカ、チカチカチカ……。

 連続していた光と闇のコマ送りが、ひどくざらついた一本の「白い光の帯」へと液状化して溶け合った。

 閃光(ハレーション)

 網膜(もうまく)の表面がジリッと音を立てて焼ける。 眼窩の奥の毛細血管(もうさいけっかん)が一斉に破裂し、視界の端が赤黒くチカチカと明滅する。 三十七度前後の生温かいゼリー状の空気が、光の粒子を吸収して異常な膨張(ぼうちょう)を始める。 鼓膜が内側から外側へ向かって、限界まで強く引っ張られる。 耳の奥に細い針を突き立てられたような鋭利な痛みが走り、頭蓋骨の裏側で「キーン」という極めて高い周波数の耳鳴りが反響する。

「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。

 ゴォォォォォォッ。

 外の風切り音が異常圧縮され、鼓膜を直接削り取るような粘り気のある重低音に変わる。 息を吸い込むたび、床のカーペットに染み込んだ未消化の胃液(いえき)の酸っぱい臭いと、古い脂の発酵臭(はっこうしゅう)が、肺の奥底にドロリと沈殿していく。

 この不潔な胃液の臭気が邪魔だ。

 光の屈折率を計算し、現在の速度を論理的に割り出そうとする思考の結線が、ドロドロに溶け落ちていく。 気管支(きかんし)がヒクッと細かく引き攣る。 大きく顎の関節をずらし、過剰な唾液(だえき)をゴクリと飲み下す。

「あ、あ、ああ……」

 後方の暗がり。 ヨレたカーディガンを着た男の喉から、気管が引き裂かれるような排気音が漏れる。 彼は、自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎっていた。

 咀嚼(ガリッ、メキッ)

 爪が根本から剥がれ、生温かい血液がひび割れた唇をドス黒く汚す。 それでも彼は、指を口から出さない。

 ガリッ。

 骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 窓枠に張り付いていた金髪の男は、酸で溶けて指紋を失った両手で、自分の顔面を執拗に擦り続けていた。

 摩擦(ズリッ……ズリッ……)

 黄色い体液(リンパ)と血が混ざった粘液(ねんえき)が、彼の頬から眼球にかけてべっとりと塗りたくられる。 彼の上下の歯が不規則なリズムで激しくぶつかり合う。

 ガチガチガチ。

 眼球がデタラメな方向へ回転し、焦点が完全に消失している。 ボタンを弾く。

 カチッ。

 私は彼らに声をかけ、この集団的狂気から引き戻すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく腐った獣脂の臭いが、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。

 臭気が邪魔だ。

 まともな思考が組み上がらない。 いや、本当は違う。 私はただ、隣で狂っていく他人の無様な姿を観察することで、自分だけはまだ「正常な側の人間」なのだという錯覚にすがりつきたいだけなのだ。 彼らが完全に壊れてくれれば、あの不潔な病室で暴かれた自分自身の罪の輪郭が相対的に曖昧になる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼らに手を差し伸べるエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。

 圧倒的な光量の白が、車内の暗赤色の非常灯を完全に飲み込んだ。 通路を塞いでいた数十体の肉袋たち。 彼らのつるりとした薄桃色の粘膜(ねんまく)が、強烈な光を浴びて半透明に透け始める。 皮膚の下。骨も内臓も存在しない。 代わりに、黒い泥のような高粘度のヘドロが、ドクン、ドクンと重い脈動(みゃくどう)に合わせて全身の袋の中を渦巻いているのが見える。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。

 なんだろう、あれは。 どうでもいい。 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。

 肉袋の一体が、関節のない腕を、こちらへ向けてゆっくりと伸ばした。

 接触(ヌチャリ)

 空気を撫でる音ではない。 伸ばされた腕の表面から滲み出る極めて粘度の高い分泌液(ぶんぴつえき)が、三十七度の空間そのものに吸い付き、空間のゼリーを引きちぎるようなひどく湿った摩擦音を立てる。 鼻腔の奥に、腐った獣脂の甘ったるい臭いが強烈に突き刺さる。 胃壁(いへき)が雑巾を絞るように激しく収縮(しゅうしゅく)する。

「私」は、床に這いつくばったまま、右手のポケットの奥へさらに深く指を押し込んだ。

 熱傷(チリチリ)

 佐渡赤玉石(さどあかだまいし)が、爆発的な熱を発し、掌の皮膚を完全に焼き焦がしている。 融けた皮下脂肪が石の表面で沸騰し、タンパク質が黒く炭化(たんか)する香ばしい臭いが、車内の嘔吐物(おうとぶつ)と獣脂の臭いを強引に上書きしていく。 神経の束を直接焼かれる痛覚のパルスが、脳髄の表面を削る。

 痛い。

 私は、この絶望的な状況を打破するために自らの肉体を焼いているわけではない。 焼け焦げる激痛(ペイン)に没頭していれば、あの病室で突きつけられた自らの罪から目を背け、自分が犠牲者であるかのように振る舞えるからだ。 ただの自己欺瞞の防衛本能。 その純粋な物理的激痛だけが、網膜の裏側で崩壊していく空間のピントを、かろうじて肉体の内側へと縫い留めている。

 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。

 カチッ、カチッ。

 三十七度の生温かい微熱と圧倒的な光の中で、ただ肉が焦げる臭いと、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。


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